大きなダイヤの乱れもなく、何事もなく終われそうだと心持に安堵を抱こう頃合を見計らうかのように助けを求めて送られてきたメールを開いたのは、夜半も過ぎて静まり返ったホームでだった。
SOS。
見慣れない文字にどんな事故が起きたのだろうかと、走るのを禁じられた通路をキビキビと歩いて進む。向う先は東の在来の詰め所だ。
帰宅の途につくサラリーマンの波も引き、早上がりのシフトが帰った時間帯。交替制で出勤したのだろう職員と擦れ違い、逃げるような足取りでコートを羽織りながら詰め所から遠退こうとしている同僚たちの姿に眉を寄せた。
捕まえる前に散っていったカラフルな制服たちの慌てように嫌な予感をさせながら扉を開く。
見知った、背中だ。
「…つばめ?」
スラリと伸ばされた背中、撫で付けて乱れを知らない黒髪、悠然と組まれた足、来賓用にと常備していた湯飲み椀は決して安価なものではないと言うのに、その長く綺麗な指が触れているだけでどうしてこうも安っぽく見えてしまうのだろうか。
漏れるように零れた声を拾い上げたのだろう、伏せた視線が静かに持ち上がる。
「………」
眼鏡の薄いレンズの内側で細められた双眸に射抜かれる感覚を、言葉で表現するのは難しいだろう。銃弾のような物理的な衝撃よりも弓矢の鋭利さに貫かれた感覚の方が似ていた。
「―――それでは、私はこれで」
何、と称する事の出来ない沈黙を破って声を上げた同僚は唯一この部屋に残っていたのだろう、硬く張り付いた表情を崩せない儘、書類の束を抱えて詰め所を後にしようとする。どちらに向けているのかも判らない謝罪の言葉は、儀礼的で感情が込められていない様が酷く滑稽だ。
上官と2人っきり。
高崎じゃなくても誰もが嫌がりそうなシチュエーションを耐え抜いた我らがリーダーは、あとは任せたと言わんばかりに人の肩を軽く叩くと何も言わずに扉を抜けて生贄を部屋の中へ押し込み扉を閉めた。薄情者、と罵る暇さえもない。
SOS。
何だかんだと接点の多い東の上官でもなく、親しみやすい性格所以にか在来の詰め所にも何度か顔を出すことのある西の上官でもなく、ましてや滅多な事では在来の方へは下りて来ない最初の高速鉄道でもない。
如何接すれば良いのか量りかねる、この地からは遠い場所に籍を置いた男を見遣って、込み上げてくる呆れにも似た息を小さく洩らした。
「…何をしているんです、九州上官?」
こんな場所で、こんな時間に、こんな、
遠ざかっていく気配が消えるのを待ってフッと口角を持ち上げた男の、見慣れた表情は見慣れない感情を持っている気がする。人間めいて、と付け足すべきかは判らぬ儘、静かに見遣った。
湯飲みをテーブルへと戻した指先が、慣れた仕草で眼鏡のレンズを持ち上げる。
「それが久方振りに会う知己への態度、か?」
何処か嘲るような声色には似つかわしくない温度を持った表情のおぞましさを逃がす術を探して、居場所を求めるように足を動かしながら自分の机へと寄った。視線が追いかけてくる。
知己、とは良くも言うものだ。鼻で嗤いそうになる心地も否定を出来ない現状も全て、場所も声の大きさ高さ温度、上官と部下という明確な立場が互いに出来た事も総てを計算した上での言葉選びに反応してやる労力が面倒この上ないと思う胸中さえ見通しているだろう男を視線だけで見遣った。久し振りに会う『知己』への態度としては間違っていない。
クツリ、と咽喉奥を震わせて低い笑いを洩らす男の表情に眸を細める。
「あまり不用意に下りられては、要らない混乱を招く事もありますのでお控え頂きたいものですが」
「山陽の奴にも、そうやって叱っているらしいな?」
「…頻繁に繰り返されるので、何度か進言させて頂いているだけです。それよりも、ご用件は?」
上官の威厳とまではいかないが、西に在籍している在来が上官を舐めている訳ではないが、話題に上った彼の人が上官である事を完全に忘れてしまいそうになったのは一度や二度ではない、なんて思い出して脱線しかけた思考を無理矢理引き戻す。
緩く腕を組み、口辺に薄く笑いを浮かべる姿は男の変わらぬ雰囲気を冗長させて存在感を放った。
「お前は変わらず、のようだな。…なぁに、明日の会議の為に前以て来てやっただけだ」
こんな東京くんだり。
忌々しいものを語る口と裏腹に笑いを含んだ声が、ぽと、と地面に落ちる様はひどく滑稽だ。それさえ知っているくせに狐のように双眸を細め、人を誑かすような面はうそりと茶を啜る。
深、と珍しくも喧噪を知らない在来の詰め所の中で空気が妙な緊張感を抱いてゆっくりと濃さを増していく心地がした。漏れる吐息の微かな音が、まるで耳元で囁かれているような。
明日の会議。高速鉄道が珍しくも全員集まって行われるそれは午後から予定されていた筈だと記憶を手繰るのは容易だった。目の前の男を苦手としている兄が、愚痴るに似た言葉を片手の指では足らない程に洩らしている。
つい、呆れが声に滲んだ。
「…あの人に見つかったら」
「はとか?アレに気取られるものか。いつ止まるか判らぬ路線よりも、空を来る方が確実だったからな」
帰りはお前の分の席も取ろうか。
ウソか本当か、帰りの分だろう航空チケットを胸ポケットから取り出しヒラヒラと振る仕草に眩暈がした。そこまで徹底して兄を苛めようとするのだから性質が悪い、とでも言うべきか。
子供の喧嘩とは質の違うそれを軽く睨むのは癖に近い。
「…それはそれは。で?今日のホテルはお決まりですか?御夕食の案内が必要であれば、誰かに案内させますが?」
丁寧に撫で付けた起伏の少ない声に神経質そうな細い眉がピクリと跳ねる様を見遣って、机の上に重ねられた書類をパラパラと捲った。急ぎの案件や他の路線の書類が紛れている事も少なからずある為、放置は出来ない。
書類が大量にあるのだ、と大袈裟なジェスチャーは通じている気配なんて微塵もなかったけれど。
「案内ならお前がするだろう?」
外食なんて習慣のない俺が、舌の肥えたお前を何処へ案内出来るって?
「…私たちの、夕食だ」
私たち?
「私とお前の―――」
長年、誰に聞くことも出来ずに居た疑問を打ち明けた時の相棒の表情は酷くひどいものだったのを覚えている。
人とは異なった生まれをして、人とは違う使命を基に形作られている存在である自分たちは『人』ではないのだと誰に言われるでもなく皆が自覚していた。人の形をしている意味を問いかける無意味さを、今更誰も口にはしない。
『人』ではない。
当たり前だと受け入れていた事実に波紋を投げ掛ける、特異さを自覚したのは何時だったのか。思い出せない。
「血、欲しくならないか?」
永い付き合いになる同僚の、その驚愕に混ざり込んだ怯えが全ての答えになっていた。それから二度と口には出せていない異質な嗜好は未だに沸々と時折顔を出しては目を逸らす事を赦してはくれない。
鼻につく特有の芳香を纏った、濃い味のする液体。赤く、色付いた。
酒やタバコのような嗜好の分類に入るだろう位置づけで、時折、衝動的に血を飲み下したい欲求に駆られる時があった。
体内から離れるとスグに冷めて味の落ちる、鮮度の大事な狂気の蜜。欲して体が疼くと鼻が利くようになり、数キロ先の流血のニオイを嗅ぎ付ける鮫と同じ獰猛さを自分の中に見つけたりもした。
獣染みた欲と反して鋭利に研ぎ澄まされていく感覚は理性を揺らし内側から壊されているようで、生まれた使命の檻へ繋がれていなければ人の形を棄てていたかもしれない恐怖を誰も知らない。
否、一人だけ、同じ嗜好を持つ男を知っていた。
永い年月を『人』の形で過ごす呪いだと思っていた糧を、ただ一度だけ酌み交わした事のある男。
薄い唇に笑みを浮かべて、掲げたワイングラスを慣れた手つきで揺らし赤い液体を照明に透かす。
「悪くない」
ワインの趣味は似ているようだと、その一言でありありと伺えた。
九州新幹線たる男は、組んだ足をゆっくりと解いて立ち上がり窓辺へと緩慢な動作で近寄り眼下に広がる街の明かりを見下ろしては薄らと嗤う。
嫌味な程、大人の雰囲気が似合う男だなと胸中で洩らした。
濃厚なワインの酸味が咽喉をじわりと下っていく心地を味わいながら、男の背を眺める。
鉄道だから。本線だから。最初の鉄道だから。
異質な嗜好を持つ理由は段々と狭められ、最後に残った言葉は『狂気』の二文字に足りて久しかった。辿り着いてからの方がいっそ、心持ちも楽になる。
狂っているから血が欲しい。生温かく芳醇な、鉄臭く真っ赤な、血。
認めてしまえば自分との付き合いも慣れていった。最近ではスーパーで売っているパックの生肉を一度凍らせたものを解凍して、薄くて美味しいとは言いがたい血で欲求を沈める事さえ学んだ。慢性的な物不足だった戦時下で餓えをしのいだネズミとは比べる気にもなれないが。
そんな愚考に走らねば保てない理性など人間が持つ理性ではないだろうと嗤う相手も居ない。
この男だけ。
「…それで?本当の目的は?」
夜の似合う男は、漆黒には程遠い夜闇の空を切り取る大きな窓辺を背にして、ゆっくりとこちらへ歩を進める。片手に持ったワイングラスがテーブルへ置かれる、小さな所作さえ流れるような綺麗な動作に見えた。
本線、と。
旧い言葉を囁く。
「逢いに来た、それ以外に何もない」
会議なぞ関係がない。真の目的はそれなのだと、細められた双眸に囚われる。
細く綺麗な指が頬を滑り、冷たい指先が唇をなぞった。
上官と呼ぶと、眉が嫌悪に歪む。
「必ず迎えに来ると言った筈だ。…私とお前は同じ人種だ、求め合わぬ道理がない」
指先が唇を割って歯列に触れている。顔を逸らしてやりたい衝動と、噛み付いてしまいたい本能に自分の表情が歪んでいくのが判った。
ただ一度だけ味わった、生温かい他人の血の味を思い出す。
「…ッ、お前は、…血が欲しいだけだろう?」
遠慮のない男の手首を捕まえ引き剥がせば、人の反応を愉しんで眺める視線がうそりと好機に揺らいで血色を覗かせた。自らの唇を湿らせる赤い舌は、ゆっくりと目的を持って動いている。
「否定はしない。お前の血は何よりも甘美で舌に心地良いものだった」
「…他を知っているような口振りだな?」
仕事の出来るこの男が女性社員から好意を持たれている様は想像に容易いが、フィクション映画の美しきモンスターのように猟奇染みた行為へ耽る姿はイメージし難かった。否、したくなかったと言う方が正しい。
眼鏡のブリッジを指先で摘み上げると、少しも表情を変えない涼しげな男は胸ポケットへ細身のフレームを慣れた手つきでするりと落とした。
上官。九州新幹線。つばめ。
お前に裂けた唇を吸われ、お前は俺の為に手首を切った。つばめは袖の下に包帯を巻いてこの地を去り、俺の唇は程なく傷も残さずに塞がった。昔。
「俺は、…人の血は飲まないと決めた」
二度と。
眼鏡のない細面の顔が近付いてくる。
「私は、お前が狂うなら共に狂うと誓った」
「……狂いたく、ない」
常軌を逸した嗜好は既に、人の枠から狂い出ている自覚を持って。
吐息の触れる距離まで近付いた男の薄い唇が、本線、とまるで焦がれた名を呼ぶように擦れた声を吐き出した。
「私は既に、お前に狂っている」
睦言の温度を持った言葉が、耳を冒して入り込む。
流し込まれる口移しの液が何色かなぞ、考える必要もなかった。