少しの非日常も醸し出すことなく淡々と業務をこなす背中を見つけて、口辺が弧月のように緩いカーブを描いて笑みへと歪んでいく心地がする。
まっすぐに伸びた背中、鴉の濡れ羽色の髪、皺などない制服、遠くを見据えた漆黒の双眸。
最初の鉄道。
その出生だけではなく、その姿勢、纏ったオーラのようなものが誰もに憧憬を抱かせてやまない存在へ気負いもなく話しかける事なぞ昔は出来なかったというのに今や上官だ、とは自分へ向けた笑い話。冗句の一つに震えそうになった肩を寒さに竦めたように小芝居を入れながら、職員と分かれた背中を追いかけた。
薄い肩にポンと軽く触れる。
「お疲れっ」
弾むように楽しげな声は、意識して出せば場の雰囲気を明るいものに変える効果があるのは実証済みだ。
微かに驚きを隠せず見開いた眼が俺の顔を見つけて安堵へ眦を下げた。それは良い判断かどうかは判らないけれど。
にんまり、と浮かんだ笑みを前面に、わざとらしく子供めいた仕草で首を傾げて視線を合わせる。
「今日はこっちだったっけ?ジュニアに会えるなら、お昼はこっちにしとけば良かった」
新大阪の駅は東に負けない混雑さで、構内も立ち止まって会話をするには向かない騒々しさが妙な高揚感を持たせた。遠足に出かける子供はきっと、こういう気分だろう。久しぶりの休日のお出かけにも似ている。
小さく笑って、ジュニアは腕の中に抱えた書類を持ち直した。
「お疲れ様です。こっちには書類を取りに来たので、上がりは東です。山陽さんは…」
「俺は気難しい女王様の言いつけで、つばめ様をお見送り。ちゃんと帰ったか見届けろーなんて、俺のお仕事とは違うんだけどね」
会議が始まる前から機嫌最悪だった女王様を思い出して肩を上下へ緩く動かし、俺の言葉に眉を顰めた表情から顔を逸らす。別に悪口なつもりじゃないけど、ジュニアにとったら大切なお兄様だもんね?苦笑。
チラと一瞥した先で、何度か話した事のある女性社員の二人組がこちらを見てひそひそと口を開いているのが見える。黄色い声は遠くから聞けば可愛らしいけれど、近づく程に耳障りだと気付いているだろうか。
はぁ、と短い溜息に揺れた肩を捕まえて壁際へ押しつけた。
「ッさんよ、!?」
「ジュニアはお昼食べた?」
細い肩に食い込む白い手袋が、どれだけの力を込めているのか当人達以外は知らないだろう。
背中で黄色い声が大きくなった心地に口角が引き上がる。
「嗚呼どうせなら夕食にしよう、…な?一緒に晩御飯」
有無を言わせない口調。意識して浮かべている完璧な笑顔。声だけ、低く冷たい。
声だけ、俺が持っている本当の声。
「ね、…東海道本線?」
消えることを意識した事のない路線(ヤツ)は居るのだろうか?
必要だと作られ、不必要だと棄てられる。昨今のいろいろと希薄な世の中では愛玩動物に飽き足らず自分達の本当の子供でさえ棄てるのだ、人とは違う生まれをした路線という存在へ『不必要』のレッテルを貼ることなど容易いだろう。それが生死の概念へと繋がる事など知りもしないのだ。
もっと便利なものがあるから、もっと。
利用されなくなって廃線とされた路線の末路なんて、誰も知らない。それに怯えながらも誰かの役に立ちたい、誰かに望まれていたいと願う気持ちも、ただ只管な走りたいという意思も。
嗚呼そして、鉄道でありながらただ一人、彼だけはそんな怯えを知らないのだろう。
誰よりも人に望まれ、御国によって作られた頂点。箱入りのお坊ちゃま。畏怖と羨望に包まれた永遠を約束された路線。
「…血を、」
個室を選んだ小奇麗な飲み屋は薄い壁の向こう側で盛り上がる宴会をBGMに、男二人が膝を突き合わせて生まれる沈黙を冗長させて久しかった。進まない酒の肴は定番ばかりが揃い、味も定番を逸脱する事のない慣れた市販の味を思う。
アルコールに溺れるのが主体となっているメニューを眺めるフリは、何度目か数えるのも億劫だった。
ビールの苦味が舌に残る。そろそろ味を変えるべきか、酔いとは遠い意識が段々と鋭利になっていく心地に酔いながら、カラになったジョッキを視界に翳した。正気を失っていない黒い眸へ。
「飲むんだろう、ヒトの血?お酒じゃ酔わない?」
底に残ったビールの白い泡を揺らしながら逃げを打つ視線を縫いとめて唇の端を吊り上げれば、一瞬だけ走った驚きの色が掻き消される瞬間を見つける。普段とは比べられないくらいに驚いているだろうに、本当に驚いている時こそ顔に出ないなんて流石だ、とは胸中の言。
否、顔に出せないのだろう。それがどれだけ危ういものか、理解しているのだ。
「ヴァンパイアとか?何かそういうの、あったよねー…映画で見たよ、格好良かった」
映画は。強調された語句に顰められる眉が、俺の言葉の裏を読もうと耳を欹てる様は気分が良い。全身全霊が一点に、俺にだけ集中している。
隠し通してきた秘密を抉じ開けられる痛みは、どんなものだろう?
「やっぱり映画みたいに、美女の首筋に噛み付いちゃったり?あれってやっぱり、男だと美味しくないのかなぁ」
「…知りません」
「十字架とかニンニクとかダメなんだっけ、そういえば?太陽の光は…真夏の炎天下でも走ってるもんね、俺達」
「…知りませんよ」
視線を捕らえ続ける役目を終えたジョッキをテーブルに戻し、代わりに未だ半分ほど残っているジュニアのジョッキへ手を伸ばした。止める素振りがないから、有難くそれを流し込む。
少しだけ常温に近付いた咽喉越しは、最悪だ。
「鏡に映らないとか、招かれないと人ン家に入れないとか…映画だと――」
「知らないって言ってるだろ!」
バン、と両手がテーブルへ強く叩きつけられる。
隣りで陽気に乾杯コールをしていた集団さえ一瞬静まり返るほどの物音に慌てた様子で駆けつけてきた店員にヘラリと笑顔を見せてウーロン茶を2つ、追加注文した。訝る視線に平気だと告げ、テーブルの上で小刻みに震える手へ自分の手を重ねる。
「見た目よりも酔ってたのかな?」
「………、」
酩酊も過ぎれば顔色は蒼褪めると笑えば、何か言い掛けた唇がギリと奥歯を噛み締めゆっくり閉じた。白い歯が、小さく覗く。
恐る恐ると運ばれてきたウーロン茶を目の前へ置いてやり、また場の喧騒が世界を包むのを待って片手を寄せた。
指先を掬い上げ、手首を掴み、手の腹を口辺に寄せる。
「九州から、お前のニオイがしたよ。舌先が甘く痺れてしまいそうな馨しさと生々しい鉄錆の鈍さが混ざり合った血のニオイ。…ジュニアのだって、本能的に判っちゃった」
いつもより少しだけ高い体温はアルコールの所為だろう。
舌を大きく使って、べろりと舐める。
「ッ、…山陽、さん?」
今度は驚くよりも困惑の方が大きいようだ。人ごみの中に放り出された迷子の子供みたいな顔で俺を見ている。
今更。
「知らなかったな、ジュニアにそんな趣味があったなんて。…どうして教えてくれなかったの?」
酷いなぁ、結構長い付き合いじゃないか。
くしゃくしゃと表情が歪んでいく様を笑顔で見つめ続ける。
「俺もね?」
今更回りだしたアルコールの心地良さに足先からじくじくと何かが這い上がってくる。嫌いな感覚だ、吐き気がした。足が、震える。
「この姿になってから、欲しくなるようになってさ?笑っちゃうだろ、今になって血が欲しいなんて」
どんな呪いだろうか。
軍需路線として始まった路線が赤字に終わる。沿線住人から廃線反対の声が上がっても呆気なく見放されるのは、まるで本当に戦争の為だけに作られたと言わんばかりで。
だのに、血生臭い形容の付く路線の名を冠していた時じゃなくて、人に望まれた『新幹線』が血に餓える。なんて喜劇!
見開いた真っ黒の目玉が零れ落ちそうで、嗚呼零れたら俺が食べてあげようと思った。
ウソダ、と。
薄い唇がポロリと言葉を零す。震えて不様で、音にもなっていない言葉は掠れて耳触りも悪い。
「俺もね、俺だけだと思ってた…教えて欲しかったよ、ジュニア?」
お前と同じだったなんて、どう表現出来るだろうこの感情を。拭いきれないほどの血を浴びて作られた始祖様は、今も血に餓えていらっしゃる。狂っていらっしゃる。そんなものと、同じだったなんて!
この感情を言葉にしたなら、きっと、
「さんよ、さん」
頬を滑り落ちた滴を横目に見ながら、段々と冷えていく手の平から手首へと舌を這わせた。皮膚の下で脈打つ血管が舌に触れている。