細められた双眸は鈍い光を動かすこともなく、ただ真っ直ぐにこちらを眺めていた。見る、などと感情めいた表現の似合わない、車窓の外に流れる景色へ視線を遣るのと同じ仕草でこちらを眺めている。
弟になる、と告げられた。
「これから宜しくお願いします、上官」
それが最初の言葉。
低く籠った声は感情を読み取ろうなんて無謀さを嘲笑うように温度もなく、用意された台本に沿った言葉を吐き出している。
揺らぐことのない真っ直ぐに立った背中を思い出して、「胸を張れ」、幾度となく繰り返された強要の言葉と混ざりあい足元をぐらつかせた。日本で最初の高速幹線鉄道、上官、兄弟、特急の名を覚えているだろうか、――――彼は?
【最初の鉄道】と名を冠し、長く永い道程を独りで走り続けている彼は多くの鉄道にとって特別だった。誰の目にも、その輸送量が超過を通り越し危険であると判っていても見ている事しか出来ないほどに、真っ直ぐと立った背中は他者を寄せ付けない程の圧倒的なオーラのようなものを持っていた。
今も、そうやって目の前に居る。
王として君臨するに相応しい振る舞いを細胞の核にまで染み込ませて作り上げられた東海道本線の姿を誇らしいと思った特急時代が瞼の裏にチラついて奥歯を噛み締めた。
彼の隣を走れる栄誉を思えば体が造り替えられていく恐怖に耐えられた、なんて綺麗事は言えない。数時間、数分、数秒、一日として同じ形を保っていられない精神を宥めたのが矜持などではなく、ただ消えたくないと現世の形に縋った本能でしかなかった。だのに、こうして新しい名前を得て、この場所に立って思うものの名は何だ?
自分よりも高い視線へ顔を上げ、微動だしない敬礼の指先を見つめた。
遠目に何度か見掛けた事のある柔らかい笑みは、薄い唇がきっちりと合わせられた口に浮かぶことはない。乱れのない制服の皺ひとつ、汚れひとつ、彼にはあり得てはいけない。
そんな幻想を持った儘、数多くの路線が畏敬を持って見つめた彼が目の前に居た。
「…私が、貴方の兄となるのは」
乾いた唇から渇いた音が出て、きっと自分は馬鹿な顔をしているだろうと苦々しく思う。
少しも動かない顔の筋肉は、能面のようだと遅れて思った。
白い能面は、台本をなぞる。
「計画に関わる者は上から聞かされているかと。知るものは僅かですが、緘口しろとの指示はありませんので他職員から尋ねられる事もあるかと思います」
その時はこんな風に動揺するな、と含まれた言葉に眉が自然と眉間へ皺を寄せる。心の整理が出来ていないなんて馬鹿な話だ。彼にとって『上からの命令』以上に絶対的なものはなく、心なんてものは二の次とするべきものだろう。
それ以前に、何故、人の形をして感情を持ち、痛みを覚え、血を伝わせ、記憶を抱える自分たちのような存在が居るのだろうと。きっと彼は誰よりも考えたに違いない。日本で最初の鉄道が独りでそれを考えた時間を思えば、その思考を凍らせる為に辿り着いた「感情の放棄」を否定することも愚かだった。
「…はい、判りました」
胸の奥の蟠りを押しだすように返した言葉へ、彼が微かに眉を寄せる。ずっと見つめた自分しか判らないだろう、小さな変化だ。
「恐れながら、上官がそのような言葉遣いでは周りに示しが付かないかと」
それはきっと彼の周りに生まれた路線達の頂点を望まれ、命じられ、染み込まされた最初の鉄道としての矜持が揺れた、瞬間。
綺麗事に隠した虚妄が引きずり出される。
「…本線は覚えていないでしょうが、私は…っ」
「東海道新幹線の名は、重いですか?」
遮られた言葉へすぐさま否定する事が出来ず、息を飲んだ。
見覚えのある彼の笑みは、自分を容作る世界全てを蔑み、卑下する皮肉を語るような自嘲で出来ている。
「お前は…俺が『はと』を忘れると思っているのか?お前が候補となった時、俺はそれを受け入れたのに」
傲慢に色付けされた、幾分も感情めいた声は彼の架線を走っている時に何度か話した事のある記憶を思い起こさせるに十分だった。忘れる訳がないだろうと、続いた言葉の意味なぞ少しも無いくせに。
そんなもの全て含めて、命令だから『上官』としての姿勢を取れと言う。
自分がどれだけ畏怖され、敬愛され、どんな感情で見られているかなんて知らないくせに。
「…では貴方も、私を兄と呼んで頂けますか?」
意趣返しのつもりに返した言葉は、予想以上に彼の驚きを誘えたようだった。
丸く開かれた目は次第に悪戯めいた笑みへと形を変え、遥か遠くから眺める事しか出来なかった柔らかい笑みを浮かべて小さく首を斜めに傾げる。ニィと引き伸ばされた唇から覗く白い歯を、ほう、と見遣った。
「お望みならば。オニイチャン」
一枚も二枚も上手の弟は、再度姿勢を正して一分の隙もない敬礼をすると少しの余韻も感じさせないで部屋を出ていく。
心臓に悪い声音が、耳の奥にへばり付いて離れないそれが呪いだと、扉が閉まる音を聞いて思った。