ねぇ、と綺麗な顔へ笑みを貼りつかせて、上越上官は俺の名前を呼ぶ。その僅かな一呼吸の間に息を詰めて身構える癖は、いつ付いてしまったのか自分でも判らなかった。
前触れもなく現れ、近付けた顔の距離で囁かれる事もある。耳元に吐息混ざりで告げられる声は、突然過ぎる驚きと同時に何か違うものも巻きこんで心臓に負担をかけるけれど、その後に続く言葉や態度や笑顔の方が俺には怖くて、深く考えるまでには至らない事ばかりだった。
短くない年月を走り続け、体に染み込んだものは消えない。
心に染み込んだものも消えない。
上官は絶対、と刷り込まれた脳みそは長い時間を掛けて「上官が苦手」へと変容していってしまったけれど。
提出した書類をパラパラと斜め読みした上越上官が、綺麗過ぎて隙のない笑みで双眸を細めて「ねぇ」と繰り返した。はい、と返す以外の言葉を俺は知らない。
「高崎の字って汚いよね」
宇都宮と同じことを言って笑う口元を隠すように、拳の形をした手が添えられた。白い手袋がひどく、異質に見える。
似ている、と言われ続ける片割れと自分が似ている所を見つけられないのに、この上官と片割れが似ている所は結構あった。今、目の前の笑い顔も。
「…申し訳ありません」
楽しくもないのに笑っている、と昔は思っていたけれど、笑うと言う行為自体が楽しいとは思えないのだと片割れは話していたのを思い出す。まさか同じ理由ではないだろうが、それでも泣きそうな笑みは見ていて気持ちの良いものだとは思えなかった。
上官、と。
用の無い時は近寄りたくもない上官の部屋から退室するタイミングを脱した足が逃げ道を欲して震えそうになるのを制しながら、象の歩みで小さく一歩近寄る。子供の歩幅よりも狭い一歩は、けれど互いでも驚くほどの一歩には違いなかった。
整った顔が浮かべる笑みがすんなりと引っ込められるのを、伏せた顔で見上げるようにチラと見遣る。
「あの、」
何を言おうとしたのだろうか、自分でも判らない衝動へ発したブレーキの信号は遅すぎたようだった。
優雅に組まれていた足が、静かな動作で解かれる。
笑みを浮かべていない時の無表情に近い顔が一番綺麗だと知っている奴は、きっと少ない。不機嫌でもない、本当に素の表情に近いんじゃないだろうかと不意に思った。
書類をテーブルの上に置いた、ぱさ、と乾いた音に促される。
「笑わないで下さい」
「……高崎?」
「あ、え、違、っ…そういう意味じゃなくて!」
そういう意味って何だよ俺。
口から出た言葉の意味不明過ぎる響きに頭が真っ白になる。それ以前に何を言い出しているんだろうか俺は。よりにもよって上官に向かって、笑うなとか失礼にも程が過ぎる言葉をっ!
血の気が失せるのをハッキリと感じながら、じわりと眦に涙が浮かび始める心地に眉を寄せて、此処には居ない宇都宮へ心の中で助けを求めた。あの男ならこんな状況でもさらりと平然とした顔で切りぬけてしまうんだろうと思うと悔しいが羨ましくもなる、ってよりこんな状況を作らないとか言うだろうけど。
パニックを起こす思考をどうにか回転させようとすれば、とりあえず本能が危険から遠ざかろうと摺足で後ずさる。半歩の距離にも満たない場所で、白い手袋が腕を捕まえた。
「じゃあ、どういう意味かな?」
口の中で悲鳴が上がる。喉奥で押し留めて、恐る恐る見遣った先では恐ろしく綺麗な笑みがこちらを向いていた。
綺麗なのに。
「いや、俺、ッじゃなくて私は、あの…」
呼吸が上手く出来ない所為で声も上手く出てこない。途切れてぶつ切りのそれに上官の機嫌が下がっていくのが指の力で判る。
「ただ、上官の笑顔は、その、綺麗で、…えと、」
「高崎」
低い、空気に溶ける声は背中に冷たいものを滑らせて真っ直ぐ立つことを強要されるが気がした。真っ直ぐ見る事を、強く。
そうして見る上官の顔は、いつも少しだけ
「寂しそうに見えたから!…です」
「………」
言ってしまった、と気付くのに数秒掛かった。否、数分かもしれない。腕を掴んでいた指の力がゆっくりと抜けて、身を丸めた上官の顔を隠すように添えられるのを視線で追ってからだったから、実の所、十数分だったかもしれない。
笑うだろうか。きっと笑うだろうな。そう思って見つめていても、上官は身動ぎ一つせず声も漏らさず、静止した儘だった。まるで動きを止めたブリキのオモチャみたいで、ぞっと寒気さえする。
「じょ、えつ、上官…?」
その肩へそっと、本当に本能が怖がっているのを自覚せざるを得ない恐る恐るとした動きで、手を延ばした。触れる直前で、捕まる。
「ねぇ、高崎」
手首をしっかりと握りしめる指は、布越しの体温を感じる余裕もない位に強く皮膚に食い込んで痛い。滑り止めの役割を果たす手袋が余計に、逃げることも許さず彼の手に捕らわれた。
上げられた顔は泣きそうだった。
その顔が見たくなくて言った言葉は、やはり俺の言葉じゃ伝わらないのだと思い知らされて唇を噛む。何処が痛いのか判らなくなってきて、胸の痛みに泣きそうだと思って、呟く声で上官と呼んだ。
「僕の一番がキミだったなら、きっと寂しくなんかないのにね」
引き寄せられた手首は赤く斑に指の後が残っていて、その上に上官が唇を寄せた。動脈の上に押し当てられた口付けは、ちぅ、なんて似合わない音をして離れる。
早く帰りなさい、と背中を押されて部屋から出るのは初めてだった。
その扉に背を押しつけて、離れ難さを感じるのは初めてだった。
何も聞こえない扉の向こう側で、彼が泣いている気がした。