報告書を提出しに行った高崎の様子が可笑しいと、気付かない方が難しかった。
苦手な書類業務を必死に終わらせ、今日の提出へやっと漕ぎ着けた彼にとっての最後で最大の難関である上官の部屋に行くまでの葛藤を眺め見ていたのは僕だけじゃなく、在来にとっては日常の一コマだ。戻ってきた時の、精根尽きはてたと言わんばかりに疲れきった彼を慰めたりからかったりするのは僕だけの特権だけど。
だのに常と違って、戻ってきた彼は何かを思いつめたような表情で溜息を洩らし、上の空だ。
月始めから一週間も過ぎ、平日の今日は主だった会議もなければ遅延や事故の類も奇跡のように起きていない。その幸運を子供のようにはしゃいで喜ぶ姿がないだけで、高崎の様子の可笑しさに誰だって気付くというものだ。
提出も終わって、後は帰るだけだと奮い立たせていた心を何処に置いてきたの?
言葉を掛けようか迷って寄ってきた京浜東北が知らないなら、この短い間に人身等が起きた訳でもないだろう。視線で「知っているか?」と問われる言葉に肩を竦めて返す。
「連れて帰って貰ってイイかな?」
眼鏡のブリッジを押し上げ、面倒だと言わんばかりに溜息を吐きながら在来のリーダーが放り投げてくるパスは少しだけ予想の上をいった。
何の面白みもない業務机の下で、何かを掴んでいる高崎を見遣りながらアレと指す。
「高崎は早上がりだけど、僕はラストまでだよ。二人とも帰っちゃってイイの?」
送った後にまた戻ってくるなんて面倒な事、する気はないよ。含ませた言葉をきちんと汲み取ってくれる頭の良さは嫌いではない。
手の中の書類をパラパラと捲って、壁掛けの丸時計を一瞥した男は数秒、悩む仕草をすると背を向けて片手を緩く振った。良い、の合図だろう。シフトの調整をしに自分のデスクへと戻っていくのを視線で追ってから、数歩の距離の先に居る高崎の背後に立った。
「たーかさき」
耳元で呼ぶと、ビクリと肩が跳ねる。
「ッ……ぁ、宇都宮?」
焦点の合わなかった瞳が揺れて、僕の顔を探して彷徨ったのに気づかないフリをして帰ろうと告げた。立ち上がる術を忘れた足を立たせて、本当は早上がりじゃない僕が一緒に帰ろうとする不思議に気付かない鈍さを笑いながら、何だかんだと世話焼きの性分が見え隠れする我らのリーダーが口を出してくる前に待機所を後にする。
もう冬だと言うのに、高崎は上着の類を着てきてはいない。それを馬鹿にしながらマフラーを貸すと、少し苦みを残した顔が笑った。
「サンキュ」
在来の為に用意された住まいの宛がわれた部屋の扉の前に付いて、隣り同士の僕と高崎はそこで分かれる。金欠が酷い高崎が夕飯をねだってくる事もあるから、一旦、と言った方が正しいけれど。
だけど今日は、ここで分かれたら彼は部屋に引きこもるだろうと判った。考えても無駄なことに囚われて、一晩中ぼうと座っているかもしれない。
そしてそうやって囚われているのは、彼の上官である上越新幹線の事なのだと思うと吐き気がした。
「高崎」
呼ぶと、反射のように足を止めた体が次の行動までは意識が回らずにその場で立ち尽くす。ひとつの事しか考えられない小さな脳みそが僕以外のものに埋め尽くされている苛々にさえ気付かないなんて、気付く余裕もないなんて。
その体を縫いとめるように扉へ手を付いて背中から肩口に顔を近づけると、漸く眉間に皺を寄せて、普段から良いとは言えない目付きを更に鋭くされた顔が振り向く。何だ、と低い声は擦れてボロボロだ。
「君の方こそ、馬鹿のくせに何を悩んでるのさ」
呼吸が触れそうな位に近い互いの顔へ機嫌の悪そうな視線を返してきても、この距離自体に不信感を持たない君が何を悩む?
鼻白む顔を笑いながら足を一歩踏み出せば、後退さる高崎の背中が扉に阻まれて逃げ場を失くした。愉快、と笑みが深くなる。
泣き出しそうな顔で目を細めて、視線を逸らした高崎が小さく唸った。
「どうせ俺は馬鹿だよ」
「そんなの今更じゃないか。…ほら、僕が特別に話を訊いてあげるって言ってるんだよ?」
早く言いなよ、吐きだしてしまえ。頭の中の全部、君を乱すもの、僕を苛立たせるもの。
「…うつの、みや」
手持無沙汰な彼の指先が、ゆっくり、撫ぜていた手首から離れる。冷えて白い肌、袖から覗く手首、赤い痕。
痕跡。
「っえ、…―――痛、ぅ」
瞼の裏側が真赤に燃え上がり、脳みそが貧血を起こしたような倒錯感が鼻から抜けていく心地がして意識を保っていられなかった。自分じゃない誰かが体を支配して動かしているかのような気さえする。
呼吸をしているのかも判らない。ただ、他人事を語る意識の中で、高崎の肩を掴んで扉の内側に押し倒した一連を見遣った。細くはない成人男性の肩がこんなにも弱く倒れるのかと思うと嗤いさえ浮かぶ。
人ひとり分の上がり口へ無様に尻を付いて転んだ姿を見下ろしながら、扉を閉めて内鍵を下ろした。室内は互いの顔さえ見えない位に暗くて、呼吸の音だけが妙に響いている。それが二人分しかないのが、また酷く嗤えた。
「何すんだよ!」
宇都宮、と僕を見上げているだろう彼が叫ぶ。怒気の混ざったそれは漸く聞いた彼らしい声だったけれど、その声の先に居るのは本当に僕なのかが不思議でならない。
殆ど造りの変わらない部屋の照明のスイッチを探して壁を這った手が慣れた距離で見つけたそれを、パチ、と付けた。
見上げてきた視線が明かりの眩しさに眇められ、眼が合った瞬間、怯えに変わる。
「どうしたの、高崎?」
「お、まえの方こそ…どうしたんだ、よ?」
じり、と逃げる足は土足の儘で部屋の中に上がり込んで、お世辞にも綺麗とは言えない彼の部屋を更に乱した。目を反らしたらダメ、野生動物と対峙しているかのような本能で、空気を揺らさない小さな動きで後退さる。
そんなんだから。
「僕じゃないよ?君の方だ、高崎。どうしたの?」
笑みに引き上げられた口角で、ゆっくりと声にする。
「何か、あったの?」
刹那、弾かれたように体を反転させながら縺れる足を奮い立たせて奥へ逃げ込もうとする彼の腕を掴んだ。勢いの儘にその場へ胸から倒れ込む背中に乗り上げて、腰の上へ体重を下ろす。
捕まえた腕を背中へ捻り上げられた格好の高崎から、小さく悲鳴が聞こえた。
「何をされたんだい、あの人に?」
尋ねると震える肩は、何も無かったなんて言葉を否定するには十分だった。
捕まえた腕の袖口をゆっくりと捲り上げると、手首から腕に掛けて、指の形を残す痣が綺麗に刻まれている。
「何でこんなものがあるのさ?」
部下弄りが趣味のような上官の思いつきで生傷を作ることは珍しくないけれど、明らかに異質なそれ。斑に赤くハッキリと残る5本の指は、相当な力で握りしめられたと判るものだ。
だけどそれ以上に、その指に紛れるように一つ、悪戯に残されるには薄く付いた鬱血。白い肌へと吸いついた痕。
「高崎」
腕をへし折ってやりたい。皮膚を剥いでしまいたい。嗚呼いっそ二度と誰も触れられないほど醜くズタズタにしてやろうか。
両の手で握り込んだ腕は青から黒っぽく変色し始めていた。指先まで通わない血が、指の下で惑って暴れようとしている。
「痛い、宇都宮。痛い」
お願いだから、と泣き出しそうな声の懇願が耳にさわさわと触れる。心地よいそれに体を倒して、覆いかぶさるようにして彼の耳元へ寄った。
「痛かったね、大丈夫。こんなもの、無かった事にしてあげる」
「待て、宇都宮!待てって!」
いよいよ腕を折ってしまおうかと力を込める寸前、高崎が叫ぶ。
「俺が上官を怒らせたんだ!」
だから何?
「上官を困らせちまったからっ、俺」
「困ったのは君だろう?それとも、こんな痕残されても、君は困らないって?」
息苦しさで呼吸を乱しながら、頭が左右に振られた。短い黒髪が額に浮かんだ脂汗に貼り付いている。
覆いかぶさる僕へと必死に顔を向かせて、真っ直ぐに僕を見た。
「宇都宮。痛い。離せ。それは俺の腕だ」
きっぱりと告げられた言葉に、指先へ込めていた力が奪われてしまったのが判った。これは高崎の腕だ。この腕にどんな痕が残っていようと、それは高崎が関知する事で僕には関係がない!
拘束していた力が無くなって、スルリと指先から抜けていった腕は重力に従って床へと落ちた。既に変色した末端は指とは思えない色味をしている。
指先の感覚がない、と小さく毀れた。
「…怒らせたんだ、俺が。上越上官を。だから、これは、悪戯だ」
床に頬を押しつけ、体を起こす気力もないのだろう高崎は普段と変わらない口ぶりで声を続けた。言葉は身動く度に途切れ、痛みに表情が歪む。
「予想以上に痕が残っちまって、困ったん、だと思う」
それだけだ。
言い訳に聞こえた。事実、自分が悩んでいたものに蓋をする為の言い訳を重ねているのだと頭の何処かが理解していた。
けれど力無く笑う目が、眦に涙を浮かべた眼が、その視界いっぱいに僕だけを見つめている現実だけが欲しかった。
「…バカ崎」
「何だよ」
「君の部屋、本当に汚いよね」
「誰の所為だ、馬鹿」
耳の後ろへわざとらしく吸いついてみても、高崎は嫌がる事はない。その警戒心の無さは僕が相手だからだと自分に言い聞かせて、微かにしょっぱい皮膚に痕を残したことを、彼は知らない。
上書きされた痣の中に一片、痕が残っていることを、僕は知らない。