無意識に携帯電話へ残っていた着信履歴を何度も反芻しては慣れた帰路を辿る足が立ち止まりそうになっていた男は、自宅であるマンションの扉に手を掛けた所でその迷いを霧散させた。
「おかえり」
 帰り着いた家に明かりが灯っている幸福に、双眸を細める。
 耳に心地よい静かな響きが当たり前のように告げる言葉へ顔を向ければ、リビングダイニングへと続く短い廊下で足を止めた青年が風呂上がりなのだろう無防備な姿のまま乱暴に髪を拭っていた。
 品行方正、文武両道。絵に描いたような模範生徒であると評判の高い青年の、その普段からは想像し難いルーズな格好へ、けれど見慣れた家族への親しみだと思えば咎める気も沸かなくなって久しい。
 綺麗に浮き出た鎖骨を晒すオフショルダーのカットソー、踵まで覆い隠す大きめなスウェット、未だ水気を含んでしっとりと濡れた艶やかな黒髪の先からはポタポタと水滴が落ちていて、呆れるように小さく、男は溜息を洩らした。
「ああ、ただいま。まったく…髪くらい、ちゃんと乾かせ」
 パチパチ、と驚くように瞬きを繰り返して青年が微かに苦笑する。
「ん、判ってる。…晩飯は?先に風呂入る?」
 新婚夫婦の定番のような言葉に男も苦笑を返し、襟元へ指を差し入れてネクタイを緩めながら青年の隣りへ並び、自分よりも長身の彼の首に掛けられたタオルを奪う。頭の上から被せるようにして強引に、タオルの上からわしゃわしゃと髪を掻き乱す。腰を屈め、痛いと告げる青年からは自分と同じシャンプーのニオイがした。
 弟、だった。
 共に住むようになって2年が過ぎ、ぎこちなかった生活はいつの間にか互いの生活習慣を馴染ませて日常を機能させるまでになって、そして違和感もない。「ただいま」と「おかえり」が当たり前のように存在し、帰路を渋る同僚の気持ちなど判らぬほどに居心地が良い場所となっていた。
 未だ教師としては若年ながら、生来の真面目な気質を評価され学校での覚えも悪くない兄と、その男が教鞭を取る高校へ通う弟。同じ名を持つ為に弟にはジュニアと愛称が付けられ、身内が同じ学校の教員であることを周りも受け入れている。
「ちょ、痛いって!ちゃんと乾かすからッ」
 頬を赤く染め、拗ねた子供のように眉を寄せた弟が離れていくのに物足りなさを覚えつつ、そうか、と男は背を向けた。感情表現が不器用だと親しい同僚に暴かれる前から、既に弟にはバレていたことを知ったのはつい最近だ。兄弟だから判る、と。
 ならばきっと、こうして不用意に触れてしまったら男の不安が伝わっているのではないかと不意に思う。それさえ、賢い弟は気付かぬフリをするのだろうけれど。
「…先に湯を頂こう」
 ネクタイを引き抜き自室へ向かう男の背中を見送りながら甲斐甲斐しくタオルを用意する弟は、けれど不意にリビングの片隅で佇む電話へ足を止めた。
 兄さん、毀れるように擦れた声が男を呼ぶ。

「本家から、電話が」





  □■□■







 日本国立高等学校
 明治から続くそこは国の名を冠する名前の通り、昔は良家の子息ばかりが通う官設の旧制中等教育学校が前身として存在した。
 文武両道を掲げ、都内有数の進学校に数えられる傍ら部活動の功績も明るく国内での認知度も高い。その為、都内外からの入学希望者も多く門戸が広く開かれて久しかった。
 若年ながら学年主任となった男――東海道は、定期考査期間に入り部活動が禁止され、生徒の姿も疎らなグラウンドを見下ろして溜息を洩らす。常ならばどこかの運動部がランニングしているだろう時間に誰も居ない、その違和感にも似たものをすんなりと飲み込めていない自分へ腹立たしさを覚えた。
 夕陽の落ちていく短い時間、その視線が永遠を眺めるようにグラウンドを見つめる。
「もしかして暇?」
 空を赤く焦がしていた陽が沈み、紫とも紺碧とも付かない混ざり合った色へと変貌していく空に視線を囚われていた男の背へ同僚が声を掛けた。少しの揶揄と少しの気遣いを同時に含ませる、人の機微に聡い相手が誰だと判っていて、男は振り返らず窓枠へ手を付く。ひやりと冷えた窓のガラスが体温を感じて微かに曇った。
 山陽、と同僚の名前を呼んだ男の表情も曇っている事など、ガラスに映り込んでいなくとも判っているだろうに。
 忌々しいものを語る心地で、東海道は同僚へと顔を向けた。
「…私はお前と違って、仕事を溜め込む趣味など無い」
 明るい髪色に温和な表情、生徒に人気があるらしいくだけた雰囲気。高校時代からの同期であり、数年前から同じ職場の同僚となった男は見慣れた苦い笑みを浮かべ肩を竦めていた。両手に持ったマグカップの片方を、東海道へと差し出す。
 担当科目の英語は今日テストを終えたばかりで、採点の作業が今から始まるのだと語る表情が少しだけ疲れているのが判った。
 溜め込む趣味なんて。コーヒーを啜りながら、長身が東海道の隣りへ並ぶ。
「俺だってそんな趣味ないよ。嗚呼でも、今夜は徹夜かなぁ」
 進学校と評される学校らしく、その学習環境は学ぶものにとって望ましい環境だった。
 考査終了の翌日には個人の総合点数だけではなく各教科の平均点やら総合順位までも明確に出される裏側は、教師たちのそれはそれは涙ぐましい労働が隠されているのだ、とは演技染みたアクションを交えて目の前の同僚が生徒たちへと語っていた話。だから赤点取って追試なんて面倒を増やすなよ、とウインク付きで続いた言葉の本気度が伝わっているのかはテストの採点が終われば自ずと明らかになるだろう。
 左の肩をぐるりと大きく回す仕草をして窓へ背を預けた山陽が、綺麗に片づけられた東海道の机の上に置かれた、異質と映る不思議な存在感を持った携帯電話を見下ろした。
「…お母さんから?」
 動揺に震える肩を隠そうとマグカップへ口を付ける鈍い動作に、判り易い男だ、と双眸を細める。
 東海道と言う男は、昨今の教師には珍しく生徒へ緊張感を与える威圧に似た態度、頭が固く融通が利かないイメージに反して自分にも厳しい実直さゆえにか生徒から反感されることも無かった。最近では流行病にもなっている学級崩壊とも縁遠い。
 愚かしいほど真っ直ぐ。他人の感情の機微に鈍くて周りを振り回してしまうくせに、妙な所でセンシティブ。
 短くない付き合いを思い返し、山陽は相手からの言葉を待ってコーヒーを啜った。集中する場を求めてか、それぞれの担当教室などで採点作業をしているだろう教師たちが居ない職員室の静寂は空寒い気がする。
 カップの縁を指先でなぞった男は、夜闇を映す漆黒を伏せて小さく嗤った。
「祖父の3回忌だ」
 へぇ、と返る。
「私にも出席しろ、との命令だ」
 命令。
 飾り気のない無地の白いマグカップを覗きこんで、落ちた声の低さに再度嗤う。
 男の名が持つ意味を、同僚は知っていた。否、この学校の関係者は大なり小なり知っていると言わざるを得ないだろう。
 それは、幅広い展開を見せる屈指の大企業、セントラルグループの中核を担う総帥の名だった。そして、明治初期に創立された現・日本国立高等学校の出資者の一人であり、その発言権を未だに残す暗黙の名。
 出会った最初よりも今の名の方が男には似合っていると胸中で洩らしながら、カラになったマグカップを手の中で弄んで「そうか」と軽い相槌を山陽は漏らした。あまりにも気のない、軽すぎる言葉が男には居心地が良い事を知って。
 ああ、と沈黙を引き連れて男がカップを煽る。






  □■□■







「電話が、あったようだな?」


 疑問符を付けながらも否定を許さない語調に足を止められた青年は、表情を変えることもなく静かに振り向き、そして静かに頷いた。
 青年――ジュニア、と親しげに付けられた愛称が定着するその生徒は、教師の一人であり浅からぬ縁のある男の顔を見遣り、ツと視線を空いた教室へと向かわせて無言で場所を変えるように促す。年の離れた男へ投げかけるには幾分も傲慢でありながら、子供の生意気さなど微塵も見せぬ堂々とした所作の貫録めいたそれに教師も静かに双眸を細めるだけで返し、互いに言葉もなく場所を移した。
「行くのだろう?」
 夕陽が沈んでいく空を背景に立つすらりとした長身の男が、その几帳面な性格を表すような手つきで眼鏡のフレームを押し上げ口火を切る。
 主語の削ぎ落された、判る者にだけ判れば良いと発せられる言葉に今度はハッキリと表情を歪めたジュニアは整然と並んだ机の一つへ緩く腰掛け、夕陽に照らされた横顔を檀上へと移した。以前使っていた記憶のある教室だったが今は他学年が使用していて、懐かしさと同時に自分が不釣り合いな侵入者である異質さを思わせる暗いものが背筋を這う。
 答えが判っているくせに応えを待つ男を一瞥もせず、青年はクツリと喉奥を低く震わせた。
「…あの人は行きたがらないけどな」
「アレなぞ」
 品の良いスーツを嫌味な程に着こなした男の輪郭に沿って差し込む逆光の夕陽が、教室を赤く染める。常ならば何処かの部活動に励む生徒の声が木霊していただろう、静けさを主張した。
 口辺に笑みを浮かべ、嘲る色を隠さない音で「はと」を呼ぶ。
「連れて行く必要も無かろう?継ぐのはお前だ、東海道」
 華族の一つに数えられたその名を、そしてグループの総帥という立場を継ぐのはお前だと、青年は幼い頃から教えられ、育てられていた。
 厳格な祖父の代でグループは企業としての名を更に上げ、先見の明があると称された彼が子よりも孫にこそ後継者として、総帥としての資質を認めたのは青年が10に満たない頃だろうか。生まれながらの絶対的なオーラ、洗練された立ち居振る舞いのそれは意識などしなくとも漏れ出てしまうものだと、男は眼鏡のガラス板の内側から観察する視線を隠さずに見遣る。
 幼さを残す頬を朱色に照らした陽が沈み、暗く闇の落ちた場でさえ存在感を失わない青年が肩を震わせた。
「…お前はそれを望んでいるのか、九州?…否、」
 つばめ、と呼ぶ。
 浅からぬ縁。否、知るものは知るだろう血の縁によって名前を変えられた男をついと見遣り、緩く青年は首を傾げた。問いかけのようで、呟きのようで、悲しそうな諦めにも似た表情が高校生の浮かべるものだと思いたくはないと、青年の兄は言っただろう。それを愚かしいと思う男もまた、その名の内に潜むもので染められて久しいと嗤う。
「私はお前を支える為に居る」
「それは」
「私の意志で」
 東海道、と男は彼の名前を囁くように呼んだ。青年が校内で広く親しまれる愛称を、この声は一度も紡いだことがないのを知らぬフリをして。
 それがまるで使命かのように。
 囚われている、どちらが呟いたか判らぬ言葉は夜に溶けた。


命と同価値の使命は存在するのか(それは生まれた意味を嗤うように)


[ ] 0404.12'up / 帰ったらジュニアが「ご飯にする?お風呂にする?」とか何て天国なん(ry