グラウンド脇にある水飲み場に行くと、鮮やかな紫色の頭があった。
テストで鬱々していたものを発散させるかのような賑やかさが洩れる体育館の出入り口をじっと眺める真剣な視線が、ボールの弾む音に双眸を細めている。
「…バスケしてぇの?」
頭一つ分程低い位置にある目線の向こう側を眺めて、掛けた声に驚いて背が跳ねた珍しさに首を傾げた。どちらかと言うと驚かす方に回ることの多い級友を驚かせた、それに逆にビックリしてしまう。
「ぁー罰走終わったのかよ?」
振り向いた顔は憮然としていて、その珍しさにやっぱり笑いそうになった。
同じクラスなのに人の事を置いて先に行った罰だ、と内心で思いながら、話題をはぐらかせようとする言葉をスルーしてやる。俺の周りには、ややこしい話をややこしく話すのが好きな奴が多過ぎて本気で困るし、腹立たしいことに俺がそのことには気付いていないと勝手に思っているのも面倒だった。
知らない儘で居れた幼さは幸福だったけれど、同い年だというのに年下扱いされるのは悔しい。
「何でバスケ部入らなかったんだ?」
遅刻の罰走で他の奴らよりも多く走った疲労にじわじわと噴き出す汗を乱暴に拭って、常磐の肩越しに体育館を見遣った。開け放たれた扉の向こう側から、活気ある声とボールの弾む音、床を蹴るバッシュの独特な音が響いて聞こえる。
昔、目の前の級友が熱中していたのだと聞いた。すばしっこくて、人を食ったみたいなトリッキーなプレイでコートを縦横無尽に駆けていたと、宇都宮が言っていた。
俺の知らない時間をアイツと一緒に過ごした常磐は、アイツがバスケなんて似合わないことをしていたのを一番近くで見知っていて、アイツのチームメイトで、同じ写真を持っていて、アイツの幼馴染だった。
体育の授業でするバスケさえ、手を抜いてるみたいに本気を見せてくれないアイツがどんな顔でバスケ部に居たのかなんて想像が出来やしない。
眉を寄せて、思いっきり不審なものを見る目で俺の顔を見るから、その視線から逃げたくて水道の蛇口を思いっきり捻って頭から水を被った。跳ねた水飛沫に批難の声が聞こえる。
「バッカ、高崎!冷てぇだろうが!…おいおい、風邪ひくぞ?」
頭皮を冷たい水が撫ぜて、首の後ろに鳥肌が立つ感覚。熱されていた体が一気に冷えた心地で頭を上げて、首に引っかけていたタオルを頭に被せるみたいにして髪も顔も纏めて拭った。風邪なんかひかねぇーよ。
目の前に、常磐の大きな眼があった。
「馬鹿は風邪ひかねぇってやつか?」
「…理数系なら俺のが点数は上だッ」
長い前髪に隠れがちな、幼さを残す顔立ちに似合わないクツクツとした低い笑いに、常磐の細い肩が上下に揺れる。抑えているつもりだろうが全然まったく意味をなさない仕草全部がもしかしたら計算された演技の一つなんじゃないかと後から思わせるような所は、幼馴染とそっくりで始末に置けない。幼少期を一緒に過ごすと似てくるって言うのは本当なんだと思い知って嗤った。
嫉妬するみたいに気にする自分が、滑稽過ぎて哂える。
「だーかーらー、バスケ部!どうして入らなかったんだよ?」
少しだけ感情的になってしまった声は怒鳴るみたいで、自分でも驚く位に大きく響いた。高い青空まで広がって、笑いを止めた級友の静かな目が酷く怖く見える。
クルッとダンスのターンみたいに綺麗に踵を返した小さな背中が、ブリキのおもちゃが仕掛けで動くみたいに単調なリズムを取って水飲み場の周りを歩いた。テレビで見た衛兵の歩く独特な動きに似ている。
別に、と冗談の種明かしをする時と同じ軽い声が返った。
「バスケが好きっつうんじゃなく、ダチとやってんのが楽しかっただけだな。部活ってより、近所のガキ同士が集まった遊びの延長だったしよ?」
小学生なんてそんなもんだろ。同意を求める言葉の、同意を求める先を持たない宙ぶらりな残響が足元へゆっくり落ちる。
「…宇都宮と、」
何かを言い掛けて、その言葉の愚かさに途切れた言葉を拾って笑われた。
「アイツは俺が誘っても絶対やんないね!…ってか、アイツとチームメイトとかゾッとしねぇわ」
綺麗な紫が首を振る度にパラパラと揺れる。頬にくっついた一房を指先が引っ掻いて剥がし、今は違う学校に進学したのだろうダチを思い返してニィと口角を上げた顔が歩くのを止めない儘、俺の方へ向けられた。走んの好きだからイイんだよ、と生意気そうに鼻を鳴らして笑う。
頭の後ろで両手を組んだ悪戯っ子は体育館を背にした。
「お前の方こそ、どうすんだよ?走るんだろ?」
ぽたぽた、肩に雫が落ちる。拭っても拭っても違う毛先から水滴が零れて、嗚呼心地が悪い。
「走ってるだろ」
「卒業後だよ」
攻守の交代を語るような勝気な笑みは下から覗きこんでくるようなそれで、視線が逃げることさえ許さない強さで見上げられていた。
高校3年生。卒業後の話題が纏わりつく年齢。将来、未来、見えない遠い明日。
「長距離に転向しねぇかって誘われてんだろ、未来の駅伝期待のホープ様?」
「…転向の話、何で知ってんだよ?」
誰にも言っていないのに何故か知っている相手をつい睨んじまっても、普段から同じクラスに同じ部活にと顔を合わせてる常磐が怯む訳もなく、ニヤリと口角を引き上げるだけだ。口の堅いだろう顧問から漏れるなんて思えない。
体力があるとは自負しているけれど、昔からずっと短距離に決めていた。全力で駆け抜ける、ペース配分なんて無視の疾走感が好きだったからだ。
マラソンへの転向は、大分前から言われていた。高校駅伝や高校陸上で名前を残せば大学の推薦が取れるし、大学駅伝に出れば将来的にも。なんて、宇都宮みたいに成績の良くない俺には確かに魅力的な話。
「大学、行きてぇんだ」
何を今更、常磐が肩を竦める。
「お前が本気で走りゃ、転向してもやれんじゃねぇの?センセーだって、そう言ってんだろ?推薦どころか、スカウト来るかもな!」
遠い明日の話が、いつの間にか近い明日に変ってるなんて恐怖だよ。誰かが嘯いて笑ってた。
「陸上は高校で止める。大学は頑張って、ちゃんと自力で受けるつもりだ」
「…は?マジで?」
頷いて返すと、遠慮もなく人を覗きこんでいた目に真剣なものが混ざる。表情さえ一気に冷えたものに変った常磐を見て、知らないことを知らないと言えた無知を俺は幸福だったと小さく懺悔した。
俺の目を塞いで何も見ないようにして、俺の耳を塞いで何も聞こえないようにして、俺の口を塞いで何も尋ねられないようにして、俺が何も知らないままで居て欲しいと願った代償に一つずつ自由を閉ざしていったアイツがそれでも俺の無知を望むから、俺は知らない儘で居た。
知るまでは。
「…絶対ぇ、宇都宮を取り返すって決めたんだよ」
息を飲む気配に世界から音が消される。宣戦布告を告げるように、俺はただ笑ってみせた。