我が物顔で席に着く人物に掛ける言葉が口を開いた瞬間に抜け落ち忘れてしまった事を、東北新幹線たる男は言い知れぬ嫌な予感の所為だと無自覚の内に眉を寄せて思った。常からあまり変化を見せない造詣へほんの微かにだけ浮かんだその不快は、きっと本人でさえも見分けが付きはしないだろう。
 会議室でもなく、休憩室でさえもない。個人の為に用意された執務室は扉へ紛れもなく東北新幹線のネームプレートを掲げていたが、執務机を挟んだ向こう側で書類に視線を下ろしている見慣れた顔へ聞こえるように、彼にしては回りくどい手段だが、溜息を深く吐き出した。顔は文字が羅列された白い紙面へと向いた儘、細く諌めた視線だけが何?と気軽さと鋭さを併せ持った奇妙な気配を持って持ち上がる。
 開業の日を同じくする筈だった片割れの、いつから浮かべるようになったのか旧い記憶をかき混ぜなければならない皮肉めいた口元の笑みが語る不機嫌さに、この部屋の主は本来座って然るべき椅子を譲ることを呆気なく認めてパイプ椅子を引き寄せた。
 他の部屋と同様、広いとは言えないその場所の大体を占める執務机を挟んだ景色は、互いに見慣れない。
「…何をしている?」
 尋ねるのも億劫な言葉は、けれど聞いてやらねば居座られ続けるのだと経験で知っていた。付き合いの長いという事は良くも悪くも互いの遠慮を欠いた干渉を齎すものだと、言葉にした事のない感情を名付けて向いの男を見遣る。ついでに一瞥した書類は見慣れない文字だった。
 お世辞にも綺麗とは言えない文字は子供のそれに似て、漢字によって文字の大きさが変わってしまう所為で行単位で見た際に余計バランスが崩れて見える。それでも平仮名だけでなく漢字が使われているのは、その姿や性格に不相応な永い年月を生きている証だろうか。
「自分の部屋があるだろう」
 相対する互いの姿は似ているとは言い難いけれど、その開通に当たり『双子新幹線』の名を戴いたりもしていた。そして交わった架線の影響か、まるで双子のように似ている姿の在来の路線をそれぞれ片方ずつ、何の因果か部下としている。
 何から何まで出来の良い優等生な部下を東北は思い出し、その片割れを思い出す書類を眺めた男が漸く顔を上げた。お茶が飲みたい、と有無を言わさぬ表情は笑みの形を作りそこなっている事に気付いてはいないのだろう。
 ハァ、と溜息を吐き出し、膝に片手を置いてゆっくりと立ち上がる東北へ追う言葉は予想を超えたものだった為か、それとも声に混ざり込む子供染みた感情ゆえにか、妙に嗤えるものだと変わらぬ表情で振り返る。
「コーヒーにするぞ」
「…東北のイジワル」
 執務机に体を投げ出し、頭を抱えるように唸った男から視線を外して東北は一度、自分の部屋を後にした。








 バイオリズムのようなものか、何をきっかけにしているのか本人さえも判らぬ所で彼が不調を訴えるのを短くない付き合いになる高速鉄道の同僚たちは少なからず知っていた。長野だけは、本人のプライドやそれを理解するまでに至らない幼さに似たものから判らない儘だが。
 本人が判っていないものを周りがどうだと評するのは可笑しな話だが、一番永い付き合いをしている男が判る事は、寂しい、のだろうと安易な想像だった。理由と問われるなら、この不機嫌を全面に押し出し傍迷惑極まりない事を言い出すくせに、人の傍から離れるのを嫌がる所がだと答えるだろう。人の居る場所へと行き、辛辣な話をする。
 他人事で観察出来る機会を得て、それが彼の無自覚な甘えなのだと推察し結びつけた東北の解を誰か他の者が聞いたなら憐れみを浮かべるかもしれないけれど。
 簡易の給湯室で二人分のコーヒーを淹れ、各々で使用しているマグカップの取っ手を持ちながら自分の執務室の扉を開けると、先ほどと同じ格好の儘で書類を片手に眺めている男の姿があった。何度読み返せば気が済むのだろうか、本当に読んでいるのか、尋ねる言葉は飲み込んだ。
 高崎が用意したお茶が飲みたい。
 机の隅、男の手が当たってカップを落としてしまわぬ位置に置いたコーヒーの香りへ眉を寄せた表情に気付かぬフリをして再度パイプ椅子へと腰を下ろした東北は、休憩時間には幾分か早い時間を壁に掛けた時計で確認してマグカップの中に落ちた自分の顔を眺めた。
「わざわざ買いに走るんだよね」
 動かぬ視線で毀れる言葉が先ほどの続きだと、何となく気付く。
「ヘタクソでさ、お茶煎れるの。インスタントコーヒーなら大丈夫だから、コーヒーでもイイですかって訊いてくるんだけど」
 それじゃ面白くないでしょ?
 目を細め、口角が笑みを形作っていても、その眉は困ったように顰められていた。そのコーヒーでさえも最初は飲めない程だったといつだか笑いながら零していたのを不意に思い出して、部下と上官という付き合いも短くない永さになっていたのだと思い出した。
 最近では専ら、この不機嫌さをぶつける相手は自分ではなく彼の部下の方にだった、とも。
「構って貰えなくて拗ねているのか」
 今回の不機嫌は原因が大分はっきりしているのだなと呆気なさとも近い感覚へ、コーヒーを飲み下して双眸を細める。元からあまり上官室へ在来である部下たちが近寄る事は無いし、忙しい時期になれば駅を同じくしていても姿を見る機会がなかったりもするだろう。
 水面に落としていた視線を上げると、同じように体を起こして向けられていた視線が一瞬だけ交わった。スグに逸らされたそれは、拗ねているの表現が似合い過ぎて薄く、笑みが浮かんだ。
「…避けられてるんだ、ずっと」
 ネガティブになっているだけじゃないか、と揶揄って返す言葉の途中で左右に振られた頭は否定を強く表し言葉を途切れさせた。
 何かが違う、と思った感覚に理由はない。
 永く一緒に居るからこそ判った、と言えばそれっぽく聞こえるだろうが、いつもと同じ周期的なものだろうと片付けようとしていたのだから永い付き合いは時に厄介なものだと後から気付くのだ。
「避けられる理由に心当たりがあるんだろう?」
 何かを思い出すように伏せられた顔が段々と歪む様は、泣き出しそうな子供に似ている。
「………笑うなって」
 たっぷりの間を取って、男は数枚の紙がクリップで留められた書類を机の上へと静かに置き、そして自分の手首を自分の手で強く握り締めながら嗤うように声を発した。
 手袋を外した手が、段々と色を失っていく。
「僕の笑顔は寂しそうだから笑うなって、高崎が言うんだ」
 どれだけの強さで握りしめているのか、白い手の甲に血管が浮かび上がって気持ち悪い。止めさせようと手を伸ばす東北のそれから逃げて、ヒラリと離れた男の手首には薄っすらと赤く指の形が映っていた。
 嗤いながら、首を傾げる。
「ねぇ東北、今更だと思わない?そんなの、…どうせキミだって思ってるだろう?」
 嗚呼、自覚していたのだな。胸中で肯定し、表情には出さずにコーヒーを啜る。冷えた苦味が舌の上でザラついて、滑りの悪い液体が咽喉を通って下りていく感触がジワジワと体の内側に染みていくのを追った。
 同じように染みたのだと、その言葉に内側が侵されたのだと男は自嘲に拳を作る。
「人と同じ形に生まれて、人みたいな感情を持って、それなのに人とは違う。人にはなれない。人に求められないと生きていけない。寂しいさ、そんなの当たり前だろ」
 キミのように延伸する未来もない。この緑の制服をいつまで着ていられるかさえ。
「それでも笑っている僕に、笑うなって言うんだよ?」
 酷い話だろう、と言葉尻を荒げた男は、机の上に所在無く置かれた書類に手の平を勢い良く叩き付け、それを振り払った。バサッと紙面が空気に叩き付けられる悲鳴が聞こえる。
 風に乗って地面をひら、ひら、落ちた。
「…高崎には何を言ったんだ?」
 避けられるほどの言葉か、それとも手を上げたのだろうか。顔に似合わず激情しやすい片割れが表情を歪める行為はどんなものだったのか想像するのは東北には不得手の範囲なので言葉で尋ねた。そうやって素直に尋ねられるからこそ、余計に表情が暗く歪んでしまうと知っていても。
「キミも、やっぱり酷い男だなぁ…」
 傷ついている僕を慰めてはくれないのか。感情もなく毀れる言葉を背にしながら床へと落ちた書類を拾うと、その期限が既に大分前に処理を終えたものだと判った。本来ならばバインダーなどで綴じられ、報告書の一つとして纏められて然るべきものの筈だ。
 否、これはそのコピーだと、遅れて気付く。
「何を言ったかな…うん、何かは言ったと思うよ。ムカついたし、」
「そうか」
「痛かったかな、やっぱり」
 何が、とは訊かずに書類を男の視界へと翳すと、躊躇いもなく、いっそ奪うように攫われた。在籍を同じ東とはしているが、管轄が違う為にこういった書類などを目にする事は殆どない。それが守秘義務の一種とは違う理由で見られたくないのだと思うのに理由は特にない。確信だけがあった。
「お前から会いにいけば良いんじゃないか?怒らせたと思って避けられているのであれば、もう怒っていないのだと言えば良い」
 それが出来る性格ではないだろうが、避けられている相手にわざと近付く嫌がらせは得意な筈だと含んだものを男は聞こえないフリに徹する。
「それとも、まだ怒ってるのか?」
 ならば尚更、いつものようにお茶の為だけに呼び出してやれば良い。
 一瞥した時計の針は一周を終えようとしていた。常から仕事を溜め込むような性質ではない東北としては業務に支障は出ない範囲内に納まっているが、目の前で書類と睨めっこしている男も同じだとは限らない。
「…東北、」
 避けられているのではなく、避けているのだと無自覚な男が気付くのは今更で、その理由はパンドラの匣とは名ばかりの子供染みたものであると誰もが口を揃えるだろう。だがしかし、今だけはそれを誰も知らない。



[ ] 2011.1219/求める。同じように求めて欲しくて、本当は。