避けられているのだと思ったのは、実のところ最近になってからだった。
理由なんて判らねぇけど、とりあえず会わないなぁと思って記憶を遡ってみれば、一か月近く顔を見ていないことに気付いて驚く。
高速鉄道が5人も属している東日本の中で、俺と上越上官は走っている場所が同じ関係で直属の上官と部下みたいな関係だった。殆どの提出書類は彼経由になるし、何かあった際の報告は上越上官が最初。振替も、何度かしてもらった。
どこかの駅や支社で顔を見るのは珍しい事じゃない。上越上官の場合はそれだけじゃなく、忘れものしたから持ってきてとか、休憩時間のお茶汲みとか話し相手とか、思い出してみると結構パシリな扱いで呼び出しされていたから殆ど在来メンバーと変わらない頻度で顔を見ていた気がする。
だのに、ここ最近は会っていない。
これは避けられているんだ、なんて簡単に結びつけて良いのかは判らないけれど何となく、俺も会い辛い気持ちがあるからそういう事にした。
謝らないといけない。
本当のところ、俺のどの言葉が上官を怒らせてしまったのか記憶が曖昧になってしまっていて判らないんだけど、それでも謝らなくちゃダメだと言う事だけは覚えている。高崎は鳥頭だよね、と呆れた宇都宮は、別に思い出さなくても良いけど、なんて付け足していたから怒るのも止めてその言葉に甘えた。難しく考えるのは好きじゃねぇし。
ハァ、なんて自分でも理由の判らない溜息が漏れる。
「あれ、高崎だけ?」
珍しい、なんて少しも気にはしていない声で続けられても、どう反応すれば判らないじゃないかと睨んだ視線で振り返れば、埼京の奴なら怯える自覚のある表情を一瞥もしない澄ました顔の京浜東北が扉を閉めた。腕の中に書類の束を抱えているのも相変わらず、その手に下げられたビニール袋の中に薄っすらとパンやらが透けて見えて、昼休憩に入る為に戻ったんだろうと判る。
肩を竦めながら、正面に向き直って机へ腕を投げ出した。
「夜まで仙台に詰めるって」
「…別に宇都宮の所在を訊いたわけじゃないんだけど」
「じゃあ何だよ?」
大抵一緒に居る自覚のある片割れが居ないから訊かれたのだろうかと思って返した言葉は望まれたものではなかったらしい。
回りくどく訊かれても俺には判らないのを判ってるくせに、宇都宮を筆頭に何か含みのある言い方をする奴が多いのは時々本当に腹が立った。それでも隣りにアイツが居れば、何だかんだで最後には意味を教えてくれたりもすっけど今は居ない。
直球で訊き返した言葉へ肩を軽く持ち上げ緩く首を傾げた男は、別に、と短く言葉を終えた。俺の悩んだ時間を返せ。
綺麗に整頓された机の上にファイルやらバインダーやらで纏められた書類の束を置いた京浜東北は、半透明のビニール袋から惣菜パンを取り出している。
基本的に昼飯を何処で食おうと個人の自由だ。まぁ利用者の目を集めるようなホームだので食ったりはしないけど、大抵の奴は駅の乗務員室とか駅ビルとかで食ったりしている筈で、俺や宇都宮もそうだ。別に待ち合わせてる訳じゃねぇが、何となく昼近くになるとお互いが何処に居るかメールで確認したりはしていた。
在来の事務所は常に誰かが居るようで、実は結構居ない事の方が多い。上官たちは逆に、誰か一人は必ず残っているようだけれど。
「そういえば最近、上越上官から呼び出しとかないよね」
一人で暇だった所為でとっくに食い終わっている俺は残りの時間を寝て過ごそうかと机に寝そべっていたのに、「そういえば」の使いどころが可笑しい気がする言葉が落ちてきて体がビクリと震えた。顔だけで声の先を見遣れば、片手にパン、片手に書類を持ったワーカホリック野郎が驚いた顔をしている。俺のが驚いてるのに。
「…何だよ?」
「鏡、見てみたら?」
だから、そういう回りくどい言い方すんじゃねぇよ!と怒鳴ってやろうかと思って、だけどそれも面倒になって眉を顰めるだけで終わらせた。酷い顔してるって意味だろ、それ位は通じる。
体を起こすのも面倒で、その儘顔を机に向けた。ひやりと冷たい。
「忙しいんじゃねぇの?最近見かけないし」
「アレ?でも、さっき…」
言葉が途切れて、扉が開く音に紛れた。誰か入って来たんだろうと思ったけど、そっから先のアクションがなく静まり返ってることに不信感が募る。誰か人身でも起こして帰ってきたのか、それとも。
体を起こそうとした瞬間、背中に人の重さを感じた。
「た、か、さ、き」
「ヒッ!!??」
久し振りに聞く声。擦れて囁くように耳へと吹きかけられたそれに条件反射の悲鳴を上げてしまった口を慌てて両手でしっかり抑えて、体を硬直させる。立ち上がりたい、というか逃げたい衝動を邪魔してぴったりと背中に張り付いた体温を突き飛ばす勇気が今は無い。
「じょ、上越上官…?」
噂をしたら影、とか言うけどマジ過ぎる。寧ろ気まずさ満点過ぎて顔が見れない。
視線だけでどうにか助けを求めた先では自分は無関係と言わんばかりに取り澄ました顔で書類を眺めていた。視線をこっちに向ける気さえ無い。
とりあえず背中から退いて貰わなくては、と決死の覚悟で顔を振り向かせようとしたら、同じタイミングで上官の白い手が俺の手の甲を滑った。手袋をしていない、皮膚の感触だ。
「痕…消えちゃったね」
「ぅえ!?…じょ、ッ官!?」
耳へと柔らかく吹き込まれる言葉に首筋に寒気が走る。冷たい指先が袖の中へ入り込もうとしてきて、しゃにむに机の上へ乗り上げる格好で距離を開けた。支えを失った上官が椅子の背凭れに手を置いて体を起こしている。
「ぁ、スミマセ…」
結構な物音に驚いた京浜東北が流石に立ち上がって、上官に「大丈夫ですか」と近寄るのを目だけで追った。眼鏡の向こう側から、何してんのって批難がましい視線が送られてきてるけど、助けてもくれない奴に責められてたまるかよ!と思いつつ、上官相手に何してんだよ俺。血の気が引いていく感覚に遅れて机から飛び降りる。
「あ、ぇと、俺…」
「高崎は私のことが嫌いなのかな?」
は?
俺だけじゃなく、上官に手を貸した京浜東北も固まった。寧ろ固まったのをイイ事に壁とかに付いてる手摺と同じ扱いで上官に使われてる。その目が見開いた儘、俺にどういう意味だと問いかけてきた。俺の方が知りたいのに。
京浜東北の問いへ「判らない」と返す為に首を振ろうとして、だけど途中で上官からの視線の痛さに止めざるを得なかった。笑ってるのに笑ってない、真剣過ぎて怒ってるようにしか見えない笑みに口角が引きつる。
「ぁ、の…?」
「そうか、嫌いなんだ…」
「否、嫌いとかそーいう事は無くてですね…」
助けろ宇都宮!お前、こういうの得意だろ!前に上官に何か難しい事言われてた時もサラリと返してたじゃねぇか、っつうか何て言ってたか思い出せ俺!
記憶を総動員させても思い出せないそれに背中へ冷や汗が流れていく。血の気が完全に失せた自覚のある自分の顔色が今どんな風になってるかなんて考えたくない。
椅子を横へと避けた上越上官が、ぐっと顔を寄せて笑みを深めた。
「じゃあ、好き?」
「あの、その、好きとか嫌いとか…ぇと…」
「はっきり言う!」
「Yes,上官!」
ん?
どアップだった上官の顔が離れて、何か普通に笑ってる顔が見えた。急になくなったプレッシャーの意味が判らなくてきょろきょろ周りを見遣ると、額に手を置いて顔を顰めてる京浜東北が見える。ってか何だよその仕草…?
「うん、じゃあ仕事終わったらメールするから」
「はい?」
くるっとその場でターンするとポケットから白の手袋を取り出し着けて京浜東北の肩に手を置いた。ビクッと背筋を正す姿は珍しい気がして見入る。
「キミが証人ね?えーと…京浜東北線」
証人ってどういう意味ですかとか訊くのかと思ったら、そんな事はなく、無言で俺の方を憐れみの視線が射抜いた。明らかにコイツは意味が判ってるんだと思うとムカつくのに、上官の背中を見ると何も言えなくて片手だけが宙を彷徨う。
「また後でね、高崎」
ひら、ひら。振られた手が見えなくなるのを呆然と見遣った俺は、自分が何を言ったのかなんて本当にこれっぽっちも判ってはいなかった。