「何て呼んでるんだ?」
 そう言えば、と何かを思い出したような口振りで言葉を始めた男は、手の中に収めていた書類を脚の低いテーブルへと放り出すように落として視線をこちらへと向けた。革張りのソファの背凭れへ片腕を預け、半身を捻るようにして真っ直ぐに向けられた顔は休憩をせがんで僅かに眉尻を下げた表情をしている。
 緩い笑み。整っていると判る顔立ちをしていながら、それを軟派に緩ませる表情はあまり好ましくは見えないとハッキリ言葉にしていたのは珍しくも本線だったように記憶していた。
 執務机を挟んだ遠くない距離から向けられる眼は連日の書類仕事による疲労の所為か、常ならへらへらとした笑みの中に隠される生来の気性の激しさが垣間見えて喉奥がクッと嗤いにせり上がる。
 望んだ返答を得られない儘に交わるだけの視線へ業を煮やした男はソファの背凭れへ背中を伸ばし、年寄り臭い声を上げながら天井を見上げた。軽い、何の重みも持たない声であの名前を呼ぶ。
「東海道本線のこと、お前は何て呼んでるんだ?」
 書類を摘まんでいた指先が無意識に過剰な力を込めるのを、書面が醜い皺を寄せる様を見て気付いた。意識しないようにと心がけている時点で自分が彼のことを意識し続けているのだと、何度目かの痛感。自覚はとうの昔から。
 理由の判らない緊張で貼り付き、上手く動かない口を動かす。短く、最小限、震えを悟らせぬよう。
「何故?」
 毀れる声の擦れは酷く無様だ。
 ちらりとこちらを伺っている視線の気配を感じながら、何も知らぬと書類に並ぶ文字を追った。少しも頭の中へと入ってこない紙面に幾度も登場する「東海道」の文字だけがずっしりと腹の真ん中に重いものを積み重ねていく。
 初対面で東海道本線の心象を悪くした珍しい男は、けれど本来、他者の機微に明るいのだと話す機会を増やすたびに気付かされる。頭も悪くないからこそ、こうして新たに名を受けて『新幹線』となったのだろうと推察させるに充分の手腕も、短い付き合いの中で垣間見ていた。
 広い肩を居心地が悪いとでも言いたげに竦めて、視線が曖昧に苦く笑いを浮かべる。
「同じ名前だから」
「同じ?」
 名前の重みが違うだろう、と語り出す胸中の不機嫌を声にしたならば男はどんな顔をして聞くのだろうか。自身も先に同じ名を持つ旧い路線が居ると知りながら、新しく名を冠した男のくせに。
 東海道、と馴れ馴れしい声が鼓膜を揺らす。
「似合わないと思うぜ、その遠慮」
 体面を取り繕うように愛想を振り撒いた笑みは日本の威信を掛けて作り上げられた新幹線という存在を軽視させるようで不快だと荒げた会話の返しは、時代が変わるのだと、新しい時代は変わっていかなければならないのだと、生まれ変わることを求められた過去を持つ男は言っていた。
 否、時代に求められて生まれながら、時代の変遷によって忘れるように棄てられる恐怖を知らないものは居ないだろう。あの、太祖を除いて。
 テーブルに放り投げていた書類の一枚を手繰り寄せる仕草をして視線を逸らした男は、お前が上官なのに、と笑いながら呟く。
「オーラって言うの?雰囲気とか態度とか、そういうの…お前さんは意識的に胸張ってる感じだけど、あっちはもう無意識に放ってるから知らない人から見たらどっちが上官なんだよって感じ」
 生まれ持った素質、歩んだ歴史、重ねた歳月。それらを比べるような話は本線が赦さない所為で考えることから放棄していた。それを今更突き付けようとしてくる同僚の言葉に耳を貸す道理はないと僅かに体を浮かせて向きを変える為に座り直す。机へ肘を乗せる形で、必然的に男を視界へと入れずに済む態勢だ。
 そっぽを向かれたに等しい男が慌てて腰を浮かす。
「拗ねんなって!ぁーと、だから呼び方の話!」
「拗ねるなぞ子供染みた真似などするものか!…くだらない、本線は本線。私は私だ」
 呼び方。
 多くの路線が『東海道』と呼ぶのは彼の方だった。それは長らく彼一人だけが持っていた名であり、当たり前だと納得する心情を泡立たせて何がしたいのだろうかと横目で男を睨む。
 同僚が来るまで、「上官」と呼ばれる立場に居るのは自分一人だけだった。その為、路線や特急などが私を呼ぶ名は上官で事足りたと言うのに、固有名詞が必要になってしまったのはお前の所為ではないか。東海道上官、と彼の平坦で抑揚のない声に呼ばれる違和感を思い出して胸の中にもやもやとしたものが蟠った。
 でも、と言葉が続く。
「兄弟なんだろ?兄さんって呼ばれてたんだし、お前も気軽に呼んでんのかなぁって」
「…それは興味か?」
 悪趣味な。
「本線は私よりも先に生まれ、私よりも長く走り、私よりも永く在り続けている。兄弟?そうだな、私が上官となる事を他の路線達に知らしめる為に、この国の長子を重んじる旧いしきたりを引っ張り出して私は兄となった。私は兄だから上官なのだ、始祖である彼よりも重んじられる立場にあるのだ、と」
 上役達の思惑が透けて見えると揶揄されながらも、それでも本線が受け入れた人事へ表立って抗議する者は居なかった。それは同時に、東海道本線という男が持つ象徴性や統率力を思い知らされるだけだったけれど。
 兄、と呼ばれた回数の指折り数える程度。
「お前は、何が聞きたい?」
 気軽に呼ぶ名を知らず、そして呼んでも貰えない苛立ちが胃袋を押し上げるに促されて吐き出した言葉は幾分もささくれだって険悪さを持っていた。
 罰の悪い表情で後頭部をガリガリと掻いた同僚が、ソファに倒れ込むように座り直す。スプリングが悲鳴を上げて、まだ若い筈のそれには似合わない錆付いた金切り声に眉間へ皺が寄った。
「…お前は、お前なんだろ?」
 親しみの籠らない、敬称としての兄。多くの呼ぶ名に倣った上官、と告げられる声は特急として彼の路線を走っていた頃よりも距離を感じることさえあった。
 笑わなくなったと、聞く。
「お前が遠慮してちゃダメなんじゃないか?…お前らしくない」
「貴様に私を語られるとは思わなかったな」
 新しい時代へののぞみ、再生へ向けた希望、誇り。
 最初の、新幹線。
「東海道本線と同じように、お前は俺らの最初だからさ」
 第二の新幹線たる男は鋭い眼差しを隠すこともせず、真っ直ぐにこちらを射抜いて言葉を切った。裏も表もなく、ただ真実の言葉だと言わんばかりの力を持ったそれはきっと、私を励まそうとでもしているのか。臆面も無く私に矜持を持てと叱咤しているのだ。
 余計なお世話、ただその一言に限る。
「貴様に言われるまでもない。私は私だ、東海道新幹線。その名を冠する事を許された、最初の高速幹線鉄道」
 その栄誉を、使命を忘れたことなぞない。
 柔和に表情を緩めた同僚は、そうかと言葉尻を濁して顔を書類へと向ければ意識を仕事に戻していった。元来、仕事は出来る奴なのだと判るその集中力に引き摺られるようにして、自身も紙面へと意識を遣った。
 気軽に。
 本線、と呼ぶ名は気軽ではないのだろうか。否、この疑問が既に軽さから遠退いている一端。だけれど、
「兄、か…」
 毀れた声は誰の鼓膜を揺らすこともなく、静かに空気へ溶けていった。



[ ] 2011.1230/私を定義する名、私があなたを呼ぶ名、あなたが私を