痴漢撲滅キャンペーン。
 関係各所に貼られたポスターの文字に頭が痛くなる。
 正直に言うと、そんなキャンペーンがあってもなくても僕の路線は毎日厳戒態勢をとってるのにそれが起きてる。駅員さんなんか対処のマニュアルを見返す必要もない位に実践経験が豊富だから、いっそソレッポイ人を先に見つけてマークしたり職質掛けちゃったりまで出来る。
 なのに起き続けるそれの所為で、最近は僕への認識が痴漢路線とか痴漢車輌とか!本当に困ってるのは僕なのに!
「―――のように声を掛け、速やかに身柄を確保し――」
 毎回、キャンペーンが始まる前に行われる講義は鉄道警察の職員が分厚いマニュアルを持ってきて1頁目からゆっくり始まる。
 発生しやすい環境、場所、時間帯、発生した場合の対処、引き渡すまでの一連の流れ。声の掛け方、被疑者が暴れた場合、逃亡する被疑者を追い続ける判断について、暗誦できた。
「それでは、実際に行ってみましょう」
 ピリ、と空気が変わる。
 他の皆も、暗誦は出来なくてもマニュアルは頭の中に入ってるし、講義自体は毎回の事だから緊張感みたいなのはない。のに、今日はいつもと違う所為でどうしても固くなってしまうのはしょうがなかった。
 だって、今日は上官と合同だ。
 あんまり接点のない僕でも、高速鉄道の上官たちが勢ぞろいしている姿を見るだけで背筋が伸びちゃうし、頭では恐いって思ってる訳じゃないって思うのに体が勝手に緊張してしまうのが判る。他の皆だってそうだ。
 そして特に、前から上官が苦手な高崎と、お兄さんが高速鉄道なジュニアが嫌そうに顔を曇らせたのが見えた。
「では、そこの―――」
 もう何度も受けている講義が、どういう流れで何を行うかなんて皆判ってる。最初はマニュアルを読んで、細かい説明が所々で混ざって、そして最後に実践。被害者役と被疑者役と、それを止める職員の役。
 つまり、痴漢される役と痴漢する役、職員の役だ。
「背の高いオレンジの服の方」
 うぅ、って高崎が低く呻いた声が聞こえた。
 在来の中で身長の高い方な高崎やジュニアは、この講義の時は大抵痴漢する役をしてる。実際の痴漢なんて人混みに紛れるような普通の人の方が多いけど、背が高くて強そうな雰囲気の痴漢に会っても怯んだりしないように訓練するんだって言われたから納得だ。
 反対に、高崎と同じ身長なのにずっと笑顔な宇都宮はあんまり指名されなくて、職員役のが多い。…高崎の方が痴漢とかしなさそうなのに、なんて恐くて言えないけど。
 朝、上官と合同になったって聞いて嫌がっていた一番の理由だと思う『痴漢役』に顔を俯かせながら、ホワイトボードの前、スペースの空けられた其処に高崎が立った。
「…実際にって、現場を再現してと言う意味ですか?」
 そしたら、僕らとは少し離れて座っていた上官たちの方から声が上がって皆が一斉にそっちを向いた。長テーブルに頬杖をついて、にっこり笑ってる上越上官が今日の講師の一人を見つめている。
 そうですが。細いフレームの眼鏡を付けた女の人は、ちょっとだけ驚いたみたいに声を詰まらせながら肯定した。その返事に、上官が笑みを深める。
「じゃあ、相手役に立候補しても良いかな?積極的に参加した方が、覚えやすいだろうしね」
 ぁ、高崎の顔色が見る見る真っ青になった。
 たぶん講義の前に、上官たちは見学だけで訓練の時は指名しないでって言われていたみたいな雰囲気が講師陣から感じ取れる。判断を仰いで後ろを振り向いた女の人に、上司に当たるのだろう壮年の男の人が頷いて返していた。
 上官たちの席の方でも、何を!って東北上官が小声で注意してるのが聞こえた。山陽上官が「良いんじゃねぇの?」って宥めてるけど、視線はこっちを見てるから説得力が無い。
 ぁ、高崎が涙目だ。
「ぇと、それでは、お願いします。…職員の役は――」
 皆、一斉に目を逸らしたのが判った。僕もだ。
 だって、…恐い!
 実の所、背が高くない僕は痴漢される役が多くて高崎から申し訳なさそうに腰にちょっとだけ触られたり、背中にぴったり抱きつかれるみたいな格好もされた事があった。でも、本当に少しだけだったりして「それじゃあ痴漢とは言えませんよ」って逆に注意されて真っ赤になってるのも間近で見てるから助けてあげられたらって思う。でも、やっぱり恐い!
 上官に痴漢する高崎を捕まえる(救い出す)役目なんて、僕に出来る訳がないじゃないか!
「はい。立候補します」
 スッと綺麗に伸ばされた挙手に、京浜東北が顔を顰めたのが見えた。ジュニアが高崎に憐れみの視線を送っている。
「意外だね、君がこういうのに積極的に参加するなんて」
「上官が自ら立候補くださっているのですから、私たち下の者も自発的に参加するのは当然です」
 東北上官が片手で顔を覆い隠して項垂れた。
 何だろう、高崎がさっきよりも小さくなったように見える。
 僕達の関係を上司と部下って聞いてるだろう講師陣が戸惑ってる空気も気にせず、立ち上がった上越上官と宇都宮が高崎の傍に寄っていった。
 ホワイトボードの前で鮮やかなオレンジと深緑色が並ぶ。
「そ、それではまず、一番多い、電車の中での違法行為について実際に見ていきましょう」
 とりあえず電車の中で疑われたくない男はずっと両手を上げていれば良いんだ。大体、何で僕の所でやるの?犯罪なんだって判ってないの?痴●はタヒね!
 一瞬僕がトリップしてる間に、高崎が上官の背後から真っ赤になりながら太腿に触ってるのが見えた。ペタって手の平が触ってるだけで少しも動いていないけど、彼にはコレが精一杯なんだって哀しい位に判る。女性講師も高崎を哀れんで、それ以上は言わなかった。
 逆に、上官が高崎の方へ背を逸らして何かを耳元で囁いた気がする。
「…セクハラも犯罪…」
 隣りの席に座っていた山手が、内回りを使わないでしっかりと頷いて返した。
 講師陣の位置からは見えないだろうけど、こっちからは上官の腰って言うかお尻の辺りが高崎の下腹部?とかを触ってるって言うか…ついでに太腿を触ってる高崎の腕から逃れようとして逆に高崎の太腿を上に撫でていく手とか……
「はい君、触ってたね」
 そこで有無を言わさないような口調で、宇都宮が高崎の腕を掴んで引き離した。何か間に合って良かった、とか思っちゃった理由は考えないけど。
 基本的に物的証拠は難しくて、証言が唯一の立証になるその行為に「すみません」って声を掛けると開き直る隙を与えやすい。けれど職員に拘束能力はなく、任意に事情を聞くのだから「すみません」の前置詞は必要となるのだけれど誰が見ても、と言う時は付けなくて良い。
 回りくどいマニュアルの通り、宇都宮は笑みを浮かべて高崎の手を背中へ捻り上げ拘束した。
「大丈夫ですか?申し訳ありませんが、お話を聞かせて頂いても宜しいですか?」
 宇都宮の方を振り向いた上官がどんな顔をしているか見えなくて良かった、と何故か思った。
 丁寧に、ゆっくりと聞き取り易い声で職員が声を掛ける。
 次の駅で一緒に下り、鉄道警察へ身柄の引渡し。
 マニュアル通りに進んだ流れに講師が満点を告げ、高崎は羞恥で涙目になっていた。
「君って、憎たらしい位に優秀だね」
「恐縮です」
 席へと戻っていく3人と目が合わないように、皆が明後日の方を向く。
「犯罪を見逃す訳にはいきませんから」
 会議室の中の温度が、5℃は確実に下がった。



[ ] 2012.0313/俺は上越サンが好きです←