昨今急増している駅、または電車の中での痴漢行為に対して警察の協力の元に行っている痴漢撲滅キャンペーンの前に、こうして講義でマニュアルを再確認するのは当然であり必要な事だろう。
マニュアルが頭の中へ入っていると自信を持っていても、実践となると勝手が変わってくる。それに、マニュアル自体も法改正やスムーズな処理の一元化で年々微小な変化が加えられるのだから、鉄道職員の一人として、講義を面倒だと思ってる人は居ないと思う。
わざわざ外部から講師を呼ぶのだからスケジュールは予め調整をしておくし、他の職員にも講義の時間は通常業務から外れていることは伝え済み。元からサボれる訳でもないのだから、参加メンバーはいつも皆勤だ。
けれど今日は、朝になって唐突に上官たちと合同の報せが入った。
何事にも、変化は良悪の二面を持っている。
通常へ介入する異質が溶け込む為に起きる波紋を処理する事がどれだけの労力が必要になるのか、それは波紋が起こしてしまった通常の脆さの所為であって労力自体に保障はない。見返りもない。それを思う度に頭痛がした。
朝のミーティングで軽く告げた一言で起きた波紋へ最初に呼応したのは高崎だった。予想通りに。
多くの講義同様、痴漢対策の講義も流れは毎回同じ。一通りマニュアルを確認し、最後に実際の現場をシミュレートしての実践へ移る。
そして多くの場合、講師は背が高くて吊り目な高崎を痴漢役に指名した。
痴漢される側には女性講師を置く訳にもいかないので、背の低い常磐や童顔の埼京が指名されて他が皆で職員の役を回すのだけれど、その時の高崎が本当に哀れで仕方がないと思える程度には不様だと在来は皆が知っているのだ。それだけでも嫌だろうに、上官の前で、となれば逃げ出したくもなるのだろう。
つい先ほどまで繰り広げられたセクハラまがいの実践を見せられ、顔色を失くして半べそで席に戻っていった高崎を思えば、欠席にしてあげても良かったかもしれないと軽く掠めたのは内緒だけど。
「では、次に――」
会議室の空気がピリ、と張り詰める。
講義の為に取られた時間は、実践を続ける事を物語って余りあった。
当初、上官は講義を見学するのみでシミュレートの方には加わらない、という前提があったにもかかわらず、あっさりと自ら立候補する形で参加した上越フリーダム上官が興味を失くしたとばかりに頬杖を付いてマニュアルへ視線を落としている。自分の番が終わったら終わりなのだと告げるその態度はいっそ清清しいが、この空気を作り上げた責任を少しは感じて貰いたい。…なんて上官には流石に言えないけれど。
次のシミュレートの為に指名する先を求めて、講師が視線を彷徨わせた。
高崎に続き、上官が参加する事へ拒否反応を示したのは珍しくもジュニアだったのを思い出す。仕事に関して妥協を許さず、頭の固いところがある彼がまさか、と驚くよりも先に納得もしたが。
身長が高く、講義に臨む姿勢が真面目な所為で妙に威圧感とは違うけど存在感めいたものを放つジュニアは、高崎に次いで痴漢役の常習だった。大抵、指名された時は困ったように表情を歪めるけれど、仕事の一環だと割り切っては事務的ながら参加している。
けれど、やはり仕事だとしても痴漢役。それも同僚のお尻や腰を撫でたりしている場面を上官、ましてや兄である東海道上官に見られるのは嫌なんだろう。チラと、伺い見るように上官たちの中でも身長の低い彼の人へ一瞥を投げたのが判った。
まったく、波紋が大きすぎる。
講義の円滑な進行、そして修了を果たさなくてはいけない身としては、また上官が指名されて波が立つよりも在来でさっさと終わらせるべきだろうと近くの席に座る同僚たちに小さく声を掛けた。
高崎は暫く使い物にはならないから、責任取って宇都宮も巻き込まれてくれるかい?君としても、早く終わらせたいだろう?
羞恥と戦う心境を押し殺し、ジュニアも頷く。
意を決して挙手をしようとした矢先、女性講師は広報向きの良く通る声で明後日の方を指した。
「あ、お願い出来ますか?」
上官席で緩く片手を挙げていたのは、山陽上官だった。
こういうのはさっさと終わらせなきゃね、と柔らかい声を洩らしながら立ち上がる上官に場がざわめきたった。まさか立候補されたからって上官に痴漢役をさせる訳にもいかない事に講師は気付くべきじゃないだろうか。
「ありがとうございます。では、その隣りの方もご一緒にお願い出来ますか?」
…は?馬鹿じゃないの?
女性講師はこっちの心配も知らず、山陽上官の隣りの席まで指名した。上官同士ならこっちの気兼ねが減るだろうとか余計過ぎる気を回したのだろう。よりにもよって、東海道上官を!
外部からの講師だとは判っていても、東海道上官の表情が歪む。その儘拒否してくれ、と祈ろうとした時、反射的に立ち上がるオレンジが見えた。…頭痛がする。
「兄…上官にはさせられません!私がやります!」
心からの叫びをありがとう、ジュニア。
「…指名されたのは私だ。お前は下がっていろ」
…このブラコン兄弟め。
辞退するだろうと思っていた東海道上官が立ち上がり、山陽上官と一緒にホワイトボードの前へと移動していく。引きとめようとして、けれど腕を掴む訳にもいかずに空を掴んで握り締められたジュニアの手が体の横へと静かに戻っていった。いっそ青春ドラマの一シーンだ。
講師が何か納得したように、ジュニアへと微笑む。
「では、そこの方に職員役をお願いします」
今日の女性講師はワザとやってるのだろうか?よりにもよって、何で問題を起こしそうな組み合わせばかりを指名するんだろうか。マニュアルは守る為にあるんだよ?
何処か思いつめた表情をしつつ、ジュニアがホワイトボードの前へと移動していると、先に講師から簡単に説明を受けた山陽上官が東海道上官の前に立ち塞がるように動いた。
「最近は駅の中でも荷物置き場などの壁で死角になりやすいような場所へ、それとなく誘導される事例が見られています」
説明の通り、体格の大きな山陽上官によって視界を阻まれ壁際へと追いやられていく様は臨場感があった。チラリと、深緑色の制服越しに嫌悪の顔を覗かせる東海道上官が見える。
手馴れた、と錯覚しそうなほど鮮やかに逃げ場を奪った山陽上官が壁へと両手を付き、一回りは小さい東海道上官に覆い被さろうとした。
吹っ飛んだ。
「…あ」
反応出来たものは居ただろうか?きっと居ない。
一瞬だった。
山陽上官が東海道上官の耳元か首筋かは判らないが、その辺りへと顔を近付けようとした瞬間、呼吸の一つもさせない程の早さで山陽上官の腕を押しのけて東海道上官の体を腕一本で引き寄せたジュニアがその勢いの儘、上官のがら空きな脇腹へ中段蹴りをした。
「す、済みませんッ!体が勝手に…!」
体が勝手に、成人男性を吹っ飛ばす蹴りを繰り出すってどれだけだい?
宇都宮が呆れた溜息を吐き出し、山陽上官が突っ込んできた前列の席に座っていた中央と総武が上官の安否を確認している。それでも、まだ大半が呆気に取られて反応出来ていなかった。
講師が慌てて山陽上官へと駆け寄っている。
「コホン。…東海道」
「ッ…悪ィ」
抱き寄せられた儘の上官が咳払いして、慌ててジュニアが腕を離した。って言うか、兄弟で赤面かい。
イテテ、軽く告げながら山陽上官が起き上がった。
「蹴りが来るとは思わなかったなぁ…でも、実際の現場ではしちゃダメだぞ?」
「申し訳ありません、始末書の提出は必ず…」
講師と中央、総武に囲まれながら立ち上がる上官の表情は明るいままで、脇腹を軽く擦る仕草はするもののダメージは見受けられない。さすがは新幹線なんだろう、か。
「大丈夫だから気にすんな。それより、ちゃんともう一回やり直すか」
「…はい?」
あの色んな意味でトラブル製造機な女性講師さえ絶句した。
そんな周りの反応はお構いなしに、ホワイトボードの前、並べられた長テーブルとの拓けたスペースに戻った山陽上官がニヘラと緊張感のない笑みを浮かべてジュニアの肩を叩く。
「でも、また蹴られるのは嫌だから、今度はジュニアがされる方な?」
「え?ちょ、」
決して背の低くはないジュニアを覆い隠すように肩を片手で捕えた山陽上官はそのまま壁際へと押し遣るように段々と迫り、逃げ場を失くした体を腕の中に閉じ込めた。周りの視線から隠され、危機感を募らせるだろう距離に自分よりも長身の男が立っている。
止めるべきか悩んだ講師が恐る恐ると見遣り、総武と中央が倒れたテーブルを直しながら距離を取った。開けたスペースに立つのは、ジュニアと山陽上官、そして東海道上官だけだ。
「…始末書めんどくせ」
上官達の視線が一ヵ所に集中しているのを良いことに、テーブルへ行儀悪く頬杖を付いた常磐がポツリと洩らす。既に事の成り行きを確信した宇都宮は学生が授業中にこそこそと悪戯めいたことをするのと全く質の変わらないちょっかいを隣りの高崎へと掛けていた。揃いも揃って100年越えの年寄りどもが集まってるのに、此処はどんな学校のつもりだい?
後退する場所を求め壁に張り付いた背中が、更に逃げを求めて踵を壁にぶつけた音がした。
先程の東海道上官と同じ状況。
薄汚れた白い壁に押し付けられ散らばった黒髪に触れようと、上官の手が静かに下りていく。少し伸びた襟足に指先を絡めて、僅かに開いた足の間へ片足を割り込ませ
「さんよ…ッ!」
東海道上官が自分よりも体格の良い二人へ手を伸ばした。掴みかからんばかりの剣幕。
けれど、それよりも先に掴んだ者が居た。
深緑の胸倉を掴み、片足を前へと突き出して体を横に並ばせれば腕を捕まえ膝を落とし、重心を下げてそのまま一緒に倒れ込むように体を引き寄せ足を相手の膝後ろから掬い上げる。
谷落。
誰がそう、呟いたかは判らないけれど、それは確かに見事な柔道技だ。
言葉の余韻が消える前に、それを塗り潰すように響いた音は、山陽上官が本日二度目となる華麗な吹っ飛び姿を見せてくれた事を示していた。