帰宅ラッシュも終わり、漸く一息ついたのは夜の入り口な時間だった。
皆一様に疲れた顔色をするのは、最近の低気圧が影響した天気の荒れ具合の所為で遅延や運休が響いている所為だろう。宇都宮も、雪の所為で思うように走れない区間を見に行くと言って昼一番から北に上っていった。
首都圏は東北や信越に比べれば幾らも降雪量は少ない。反面、雪対策に重きを置いていない架線は少しの積雪でも対処に困ったりもした。運行上の安全を考えると止めなければならないと分かりながら、これ位の雪なんて地元だったら走れるのに、とか。
開業当初から雪対策が整えられていた上越新幹線は落葉の季節を過ぎた今の時期になると強いよなァと、思い出しながら見上げた掲示板にも通常運行しているのが見て取れる。
ちょうどタイミング良くホームへやって来た上野行きの車輌へ乗り込み、窓の外の景色を伺いながら天気がこれ以上悪くならない事をこっそりと祈った。
どこのスキー場にも喜ばしい積雪は、だけど在来の鈍行には好ましいとは言えなくてこっそりと洩らした胸中だけの祈りを聞き届けてくれたのか、上野駅に着くまで吹雪く空を車窓に眺める事はしなくて済んだ。今日はこのまま東京まで戻り書類を片付けて家路に着く予定だと頭の中でスケジュールを開きながら車輌の中を乗務員と一緒に点検して回る。
チェック表に書き込み、交替の職員へ渡して回ってきている筈の書類を受け取る為に事務所に向かう。電光掲示板は大雪の影響で遅延している路線が数本あることを伝えていた。
「…宇都宮の奴、大丈夫かな…?」
「心配するのは宇都宮だけ?」
ポンと両の肩に置かれた手と慣れた体重の掛け方、驚かすことを前提とした前触れのない声に毎回同じく驚かされてしまう自分が情けないけれど、それでも驚いて早鐘を打つ心臓と反射的にビクリと竦む体はどうにもならない。
恐る恐る顔だけ後ろへ振り返れば、笑みを貼り付けた上官がサラサラの黒髪を流すように小さく首を傾げてこちらを見つめていた。
言葉にならない声にパクパクと開いては閉じてを繰り返す口を見つめて、金魚みたい、と眉を顰めながら遅れて笑う。
「じょ、上越上官!お疲れ様です!」
職員用の通用口を視界の端に見つけながら、上官のどアップに笑みを返してみる。背筋を正すと肩に乗った手が体重を掛けてくるから僅かに屈むのはちょっとした癖に近い。
駅の白い壁に描かれた乗り換え案内の目印を辿りながら歩く人の視線が時折俺たちを見つける居心地の悪さを無視して、上官の細い腕が首に巻きついた。後ろから抱きしめられているような、首を絞められているような、どう表現して良いのか分からない格好はけれど、とても優しく暖かい。
「お疲れ。高崎支社まで行ってたんだって?おつかい頼んじゃえば良かったな」
「おつかい、ですか?」
耳元で囁かれる柔らかい声は雑踏の気配なんか簡単に消してしまう。黒のロングコートを羽織った上官が俺の目立つ色の制服を隠してくれているから余計に、この暖かさに甘えてしまいそうになって言葉を探した。
うん、と頷くように顔を少しだけ動かした彼の細い顎が肩にちょこん、と乗る。
「ちょっとした資料なんだけどね、昨日あっちで目を通してたら忘れてきちゃって」
「ぁ、俺が…」
取りに戻りましょうか、と続ける筈の唇に指先が触れた。
高速鉄道の上官たちが皆付けている白い手袋をしていない、少しだけひんやりとした人差し指が言葉を遮って、何も、言えなくなる。
静かに離れた体温の名残惜しさに、体ごと振り返って上官を見つめる。
「今からあっち行ったら帰りが遅くなるだろ?僕が行った方が早いし、東北に任せて来てるから良いよ」
新幹線の方が早いのは当然で、分かりました、と頷くしかない俺を見て目を細めて笑った上官はポケットから白の手袋を取り出して慣れた手つきで身に付け始めた。左手に嵌められた指環を隠し、ひんやりした手が白に包まれるのをぼんやり眺める。
自分もポケットに何かが入っていたのを思い出して左右のも胸ポケも、ごそごそ探した。
「あの、上官!」
「何?」
ちょっとだけ間延びした声。それが可愛いと思えるのは、この人との関係が変わったからかもしれない。
ポケットから探り出したホッカイロを手渡す。
「駅員に貰ったやつで申し訳ないんですけど…まだ暖かいんで、コレ」
新幹線の中に乗ってしまえば、駅ごとに空気の入れ替え並に扉が開いて寒さを覚えたりはしないだろうけれど。
まだ半日は保つだろう暖かさを受け取ってくれた上官は、白い手袋の両手でそれを挟んで構内をぐるりと見回した。何かを探しているような視線に首を傾げていれば、思い出したように携帯電話を取り出して二つ折りのそれを開く。
「…僕が帰ってくるまでに仕事、終わらせておいてね?」
「ぇ?」
時間を見ていたんだろう、スグに閉じられた携帯はポケットの中に戻された。
意味の測りかねた言葉を頭の中で反芻して、今日は比較的早く帰れる算段だから、と遅れ気味ながら頷くと満足げに笑った上官が一歩、距離を縮める。
誰か来るかも、と頭の隅っこで警告する声を掻き消して煩い心臓の音も知らず、上官の綺麗な笑みが近づいた。耳元に唇が寄る。
「カイロのお礼に、僕が高崎を暖めてあげるから」
「…うぇ?」
一瞬だけ、柔らかい感触が唇を掠めていった。風のように余韻もなく、サッと引いてしまった姿を追って上官の背中を見つめる。細くて折れそうなのに弱そうなイメージを抱かせない、頼りになる背中。
「終わったらメールする事。絶対ね?」
ひら、と片手を体の横へ垂直に突き出して振り、その儘新幹線のホームへと向う足をずっと見つめた。深緑の制服が見えなくなるまで、ずっと。
耳元で囁かれた言葉が熱を持って、まだ傍に居る感覚がする。
回りくどい言葉なんて判らない俺にでも意味が判るそれに、遅れてやって来た羞恥心で顔が熱い。囁かれた耳を叩く勢いで抑えた。
「……あの人、反則だろ…」
心臓がいくつあっても足りない!
デスクワークが苦手な俺がさっさと書類を終わらせた事に驚いた同僚たちが興味本位に問い質してくるそれに、上官が戻ってくるまでに片付けた、なんて言える訳がなかったけれど。